誰もほめてくれなくても神様はすべてわかっていてくださる

キリスト教エッセイ
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 わたしは人からほめられるのが好きだ。と言うよりも、その原動力によって生きていると言ってもいいかもしれないくらい、他人の承認や賞賛に依存している。
 多くの人が他人からの承認を求めて日夜苦闘していることだろうと思う。他人から「いいね」「すごいね」「さすがだね」「よくやったね」と言われたい。それが人間としてのさがのようなものではないか。
 でも、わたしは一大決心をした。SNSをやめたのだ。Twitterにブックメーター。両方やめたのだ。検索エンジンで「星大地 キリスト」と検索すると、過去のTwitterとブックメーターの情報がもうアカウントは削除したのに出てくる。それらを見て、「あぁ、わたしはSNSを卒業できたのだ」と我ながら思う。もちろん一抹の寂しさを覚える時もある。しかし、やめたのだ。やめて、新しく歩いていくのだ。
 わたしがSNSをやめたのは、それらに費やしている時間がもったいないと思えてきたのがまず理由の一つ目。二つ目には他者からの承認に依存することから脱却したいというのが理由である。
 考えてみれば他者からの承認に依存するということは、他者からの評価がすべてであって、自分の価値がそれによって変動し続けることを意味する。それがもっと病んできて徹底されると、他者に迎合する生き方をするようになる。つまり、いつも自分がどうしたいかではなく、他人からどう思われるか、どう見られるか。それが人生の基準になってしまうのだ。「インスタ映え」という言葉があるけれど、自分がこれをやりたいからやるのではなく、人から羨ましがられたりするためにやるのである。
 最近驚いたのは何と「インスタ映えする家」というキャッチコピーがのったチラシが入ってきたことだ。そう、インスタグラムを研究して、どういう家が一番映えるか研究して、そんな家を売り出しているのである。こうなったら世も終わりではないが、何か倒錯した欲望をそれからわたしは感じる。自分がこういう家に住みたいから自分好みの家を建てるならわかる。けれど、そのインスタ映えする家は自分の満足もあるのだろうけれど、眼目は人に見せることにあるのだ。わたしは幸せですよアピールをして多くの「いいね」を押してもらうために家を建てるのだ。それって一体幸せなのだろうか。わたしはそこに疑いのまなざしを持ってしまう。
 わたしは変わりたいと思った。承認欲求をすべて完全に葬り去ることは到底できないけれど、すこしはそれへの依存度合いを減らすことはできるのではないか、と。
 変わるにはどうしたらいいのか。どうすればいいのか。冴えない頭で考えていたらこんなことを思い付いた。
 他者からの承認欲求を、他者でありながらも神からの承認欲求に置き換えればいいのではないか。こんなことを考えてみた。正直言うとわたしは最近信仰が弱くなってきている。一応、というか毎週の礼拝と教会での集会には欠かさず行くことができてはいる。けれど、何か冷めているというか、中途半端というか、中だるみというか、とにかくはっきりとしないのである。
 要するにわたしには祈りが足りないのだ。神様のことを毎日一分くらいしか考えていない。一日は二十四時間もあるのに一分しか考えていない。何ていいかげんな信仰なんだろうと自分でも思う。でも、時間が長ければいいというものでもない。いかに心をこめて神様に向き合うことができるか。すべてはここにかかっている。
 ともかく承認欲求を人間ではなく、神に向けるのだ。神様に認めてもらうという、承認していただくということなのである。神様。神様はわたしを丸ごと承認してくださっている。しかも、人間だったら絶対に受け入れてくれないだろうわたしの醜い部分や欠点なども、それすらも受け入れてくださっている。人間の承認は気まぐれだ。してくれる時もあればしてくれない時もある。でも、神様はいつだってわたしを全面的に全存在をかけて承認してくださっている。神様はとてつもなく優しくて、とてつもなく大きくて、とてつもなく器が大きい。クリスチャンによっては、神様というのは厳しいお方で罪を犯すと罰せられるお方だということを強調する人もいるけれど、たしかにそういう面もある。厳しさもある。けれど、それを含めて神様は愛のお方である。
 人間はいつもわたしが承認してほしい時に承認してくれるわけではない。特に承認してほしくなくても、ほめてくれるときもある一方、承認を渇望している時に限って、喉から手がでるほど承認がほしいのに一向にしてくれなかったりする。人間の承認は気まぐれだ。だから、これをすべてにしてしまうと他人にどこまでもどこまでも振り回されることになる。だからこそ、人から承認を求めること自体を全面的に否定するわけではないが、それに依存することは考えものなのである。
 承認を他人に求めながらそれが得られない時、いや他者から承認されてもされなくても、神様はあなたのことを全面的に承認してくださっている。それでいいじゃないか。
 そもそも人間の承認は感情によって左右される移ろいやすいものだし、わたしのことを、わたしがなしたことを本当の意味でわかってくれているかどうか、と言えば実のところ怪しかったりする。もちろん、深い理解による人間による深い承認があることもわたしは否定しない。しかし、神様からの承認はもっと深いものなのだ。いいとか悪いとか、快とか不快とか、そんなつまらない次元ではないのだ。無償ではかりしれないほどの愛をわたしに注ぎ込むかのように承認してくださる神様。圧倒される。その次元の違う承認に圧倒される。だから、大丈夫。全世界敵に回しても神様はあなたの味方なのだから。これ以上心強いものはない。
 と書いてきたわたしだが、このことを理屈としてはともかく実感できていることが最近少なくなってきている。
 「神様からの承認があれば人間からの承認なんて要らないよ」とまで言い切ってしまうのは言い過ぎだが、何となくその気持ちもわからないことはない。世を捨てて神様からの承認だけで生きる。そんな世捨て人の気持ちがほんの少しわかるまではいかなくても感じることができたように思う。
 だから、ほどほどに人間からの承認も求めながら、でも基本は神様から承認されているから大丈夫。そんな姿勢で人生に臨めたらと思う。人からの承認に依存しすぎることなく、神様からの承認に依存して、とは言うものの世捨て人にはならないようにしながら。立ち位置が少し難しいが、こんな風にわたしは思っている。
 今回は、人からの承認と神様からの承認について考えを深めることのできた有意義な執筆となり、気づきもたくさんあって良かったと思う。
 もっと祈ろうと思う。そして、神様からの承認を、それも本当に深い承認を味わうことができたら人生はもっとより良いものになっていくのではないだろうか。そんな気がする。


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