「いいね!」必要論

いろいろエッセイ
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 わたしはTwitterをやっている。ツイートするとそれに他の人が反応してくれる。「いいね」が押されたり、リツイートされたり、コメントを返してもらったり。
 実はわたしは今Twitterをやっているものの、過去に2回ほどアカウントを削除したことがある。どちらも他者からの評価とか反応に自分が縛られていて依存しているような気がしてきて嫌になってやめたのだった。
 その主張ももっともだ。何せ自分自身が過去に思ったことなのだから、そう思う。
 けれど、今のわたしはそういう気持ちも多少認めながらも少し考えが変わってきている。他者からの評価に依存する。それがないと生きていけないというのは確かに少々病的で問題があるとは思う。けれども、適度に生活に潤いを持たせるためにそういったものを利用するのは悪いことではない。むしろ、そういった他者からの評価とか承認は人間の本能であり、それ自体を頭ごなしに否定するのは行き過ぎではないかと思う。
 わたしは「いいね!」のような他者からの承認は必要なものだと考える。なぜなら、それがなくなってしまったとしたら無人島で暮らしているような状況と何ら変わらなくなってしまうからだ。孤独でいることを何とも思わない平気な人というのも少数ながらいることだろう。けれど、そういった例外的な人は除いて一般的には他者からの承認がない環境では脳も活性化しない。承認を別の言葉で置き換えるなら刺激と言ってもいいかもしれない。刺激が必要なのだ。
 20代の教会に行く前のわたしは孤独で家族以外の人間関係は皆無だった。だからだろう。頭の回転も今よりも鈍かったし、表情も虚ろだったし、思考も単調だったのだ。
 ともかく、今も昔も人間は、もっと言うなら人類は「いいね!」し合って生きてきた。これは事実であると思う。
 妻が料理を作る。黙って無言で何も言わず食べる夫もいるようだが、そういった態度には不満がたまる。妻は夫から「いいね!」がほしいのだ。「美味しかったよ」と一言でもいいから「いいね!」してほしいのだ。自分の料理を作ったという頑張りを認めてほしいのだ。評価してほしいのだ。だが、そんな気持ちも全く省みることすらなく、45点とか点数をつけたり、「これまずいね」などと批判してけなす夫もいるらしい。「いいね!」がほしい妻に「いいね!」どころか「よくないね!」をつける無神経な夫。わたしはそういう人にはなりたくないものだとつくづく思う。
 認めてほしい。ほめてほしい。この思いは料理を作る妻だけではなく、老若男女問わず共通のもののようである。すべての人間とは言わないが、多くの人はほめられて悪くは思わない。これはおそらく本能ではないだろうか。人間としての基本的な欲求というか、当たり前の心情というか。
 だから、人間にはTwitterに限らず「いいね!」が必要だ。いや、必要どころか「いいね!」がなかったら生きていくことが難しくなるのだ。人間には「いいね!」が必要。だから、身の回りの人に「いいね!」をしてあげよう。「すごいですね」「素敵ですね」「うまいですね」「さすがですね」「かわいいですね」「最高」などなど、「いいね!」の形はたくさんある。
 今日もTwitterの「いいね!」に力づけられているわたしである。みんなで「いいね!」し合えたら世界はきっと明るく輝いてくることだろう。
「いいね!」っていいね。みんながみんなでみんなに「いいね!」できたらと思うわたしなのであった。

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