さて、ここで問題です。ここにリンゴはあるのでしょうか?

いろいろエッセイ
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 60分のタイマーを押してそれから3分経過。今日は何を書こうか、書きましょうか。うむ、何を書こうか、書きましょうか。これをひたすら繰り返していても仕方がないし、そういったことは書く前に考えることだ。思考の実況中継。それはほとんど意味がない。
 わたしは今、Pomeraの画面を見つめながらそのキーボードを叩いて文字を入力している。たしかにわたしは今、この世界にいて存在していろいろなものを知覚して生活している。が、これが、わたしが見てさわって匂いをかいでいるこの世界が本当にありのままの姿なのかどうかと言うと怪しい。
 わたしが見ている世界と母が見ている世界と猫のルルが見ている世界はそれぞれ違うのかもしれない。わたしが赤色として見ている色を母はわたしにとっての紫色として見ているかもしれないし、猫のルルにとってはモノクロなのかもしれない。それが生き物の種類が違ってくればくるほど、色を違うように認識するらしい。トンボが見ているこの世界とカエルが見ているこの世界とミミズが見ているこの世界はそれぞれ違うのかもしれない。同じ世界の中で生きてはいるのだけれど、もしかしたら奇想天外に受け取っているのかもしれない。かもしれない、かもしれないって断言しないわけですね。御名答。わたしはわたしでしかないから、母から見たこの世界がどんな世界なのか分からないし、猫のルル、トンボ、カエル、ミミズについても彼らになってみなければ分からないのだ。
 そう考えていくと、もしかしたらだけれど統合失調症の幻聴とか幻覚などと呼ばれるものも真実をとらえているのかもしれない。普通の人には聞こえない声が聞こえる。普通の人には見えないものが見える。でも、考えようによってはその正常と呼ばれている普通の人たちがとらえることができないものを統合失調症の人がとらえている、という可能性はないだろか。
 今、わたしは一人だ。けれども、本当は死者があたりをうろつき回っていて、しきりにわたしに話しかけているのかもしれない。でも、わたしは聞こえない。わたしには見えない。そして、多くの人も「静かで何も聞こえないね」と言うことだろうと思う。
 カントはこの世界は無ではないかと大胆なことを言う。ゼロだと言うのだ。わたしたちが見たり、聞いたり、さわったり、匂いをかいだりしているこの知覚が及ばない領域があって、それがその物の本当のありのままの姿、「物自体」だと言う。それが無なのだと言う。この領域は神様にしか見ることができない。
 わたしたちから完全に知覚を取り去った時に何が残るのか。それでも何かを認識することができるのか。そんなのどう考えたって無理だ。人間に知覚を超えることなんてできない。超能力でも使わない限り、そんなのは無理な話。
 わたしは統合失調症だけれど幻聴のない統合失調症で、と言いたいところではある。でも、今までに4回くらい幻聴らしきものを聞いたことはある。まぁ、大したことではない。幻聴のベテランと比べたらわたしのは本当にかわいい。でも、聞いた。どんな感じだったかと言うと、頭の中から声が聞こえてくるんだ。だから、普通の何か音を聞くという感じとは違う。頭の中からわたしの中に流れてくるようなと言ったらいいだろうか。外部からではなくて内部からの声なんだ。表現するのが難しいのだけれど、自分の内的な声に近い。しかし、内的な自分の思いやら考えではない。それは考えようとしているわけでもないのに頭の中から聞こえてくる。だから、これは自分の内的な声でないということは分かる。
 もしかしたら統合失調症という病は世界の真実に片足を突っ込んでいるんじゃないか、などと思ってみたりもする。むしろ、選ばれた人間なのではないか。選民思想みたいでけしからんみたいに思う人もいるかもしれないけれど、そう考えるとわたしの中ではストンと腑に落ちる。聖書の預言者だって神様からの声をいわゆる幻聴やら幻覚によって受けたではないか。
 というか、幻聴とか幻覚と言う時の、そう突き放して言ってしまう時の幻って何なんだよ、とも思う。ただ大多数の人たちがそれを見たり、聞いたりできないというだけで、それができる人が異常な病人になってしまう。でも、謙虚に虚心坦懐に考えてみるなら、健常者と呼ばれる人たちの方こそむしろそれが聞こえない、見えないということによって幻聴、幻覚を呈しているのではないか。
 今、目の前に1個のリンゴがある。このリンゴを見た100人のうち99人が「リンゴがある」ということに同意した。でも、たった1人、たった一人その人だけが「いや、ここには何もないじゃないですか。何言ってるんですか?」と言った。この99人と1人。どちらが正しいのだろうか。どちらが真実を把握しているのか。この99人はこの何もないと言った人に「あなたの方こそ何言ってるんですか。あなたちょっとおかしいんじゃないですか」と言うことだろうと思う。そして、そこにあるリンゴをその何もないと言った人のところへ持ってきて「このリンゴが見えないのですか?」とダメ押しをすることだろう。けれど、その多数から見たら不思議な変なように見える人はそれでも「何言ってるんですか? おかしなことを言うのはやめてくださいよ」と返す。しまいに苛立ったリンゴがあると言う人たちはその一人の人の手にリンゴを押しつけて「これでもここにリンゴがないと言うのですか?」と迫る。が、このリンゴがさっぱり見えない人はリンゴが自分の手に当たっている感触さえも感じなかった。となるともはや水掛け論の平行線であることは言うまでもなくて、両者は相手のことをお互いに「この人は何を言っているんだろう」と思う。
 さて、ここで問題です。ここにリンゴはあるのでしょうか? こう問われたら答えられないのは言うまでもない。一般的に常識的に考えるのであればみんながあると言っているからあるのだと思うことだろう。けれど、ここでもしかしたら99人の方こそ欺かれてい可能性だって十分ありうる。そして、そのリンゴがないと言った一人の人の方こそしっかりと真実を把握していて正しいことを言っている。むしろ、多数が間違っていたのだという皮肉な結論こそ正しいのかもしれないのだ。
 だから、精神障害者で頭がおかしいとか奇抜だったり変な人と思われるような人たちであっても頭ごなしに「頭がおかしいだろ」とは言えない。もしかしたらこの世界の真実を把握している神の使いなのかもしれないのだ。と言いつつも一方でやっぱり彼らは幻を見たり聞いたりしているだけで単に頭がおかしかっただけだったという可能性もある。でも、わたし自身が統合失調症だから言いたいのだけれど、自分の症状というのはたとえどんなに傍から見て荒唐無稽でふざけているだけのようにしか見えなくても少なくともそれを感じている人にとっては真実なのだ。だから、頭ごなしにお前はおかしいとか言わないようにしてほしい。それがわたしからのお願いだったりする。
 ここにリンゴがあるのかどうか。それすらも下手をしたら神様の領域なのかもしれないとわたしは思う。わたしたちは欺かれていてそのものの本当のありのままの姿というものを見ることができていないのではないか。別の言い方をすればただ五感でいろいろなものを知覚しているだけ。だから、それがもしも間違っていたら……。わたしたちはもしかしたら何もない世界で何かがあるようにリアルに感じているだけの寂しい存在なのかもしれない。真相は、真理はどこにあるのか。こればっかりは分からない。常識と呼ばれるもののもろさを感じつつ、しかしそれでも常識的に生きていくことしかできない。
 わたしがあると思うものは本当にあるのか? これが難問だったりする。真相はいかに。

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