頑張る派 vs.そのままでいい派

いろいろエッセイ
この記事は約7分で読めます。

 もっと良くなりたい。もっと良くなってこうなりたい、ああなりたい。そう思うからこそ、わたしは日々いろいろなことをやってきたし、努力もしてきた。
 人はこれでいいと思った瞬間、成長しなくなるんじゃないか。今のままでいい。別にこれ以上良くならなくたっていい。今のままでいいのだから。これでいいのだから。
 わたしが思うに、この社会では頑張る派と今のままでいい派が大きく対立していると思う。いや、対立はしていないかもしれない。ともかく、大きく分けるとするならその二つの考え方がある。
 頑張る派はこう言う。努力というものは人間にとって必要なものでまさに必需品。この頑張るということ、さらに上を目指そうと向上しようとすること。これがなくなったら人間は堕落する。良くて現状維持で大抵下がっていってしまう。人類の歴史はこの頑張ることと共にあった。わたしたちは挑戦して頑張ってきた人たちの子孫なんだ。頑張らなかったご先祖はもうすでに自然淘汰されて滅んでしまった。滅びたくなかったら頑張ること。頑張れば体力だって持久力だって精神力だってつく。何よりも自分が向上していくのって嬉しいじゃないですか。人間は向上していくことに喜びを感じる生き物であって、怠けたりずっとぐだぐだ休んでいるというのはこうした本能的なものに逆らっている。頑張らない人間はどんどん駄目になっていく。体も脳も使わなければ衰えていくのは科学的にも証明されていることで、そうした頑張らない人というのは肉体的にも精神的にも衰えていっていずれは滅びる。頑張りなさい。頑張ることでしか道は開けないんだよ。
 一方、今のままでいい派はこんなことを言うだろうと思う。そんなにあくせくあくせく頑張って何を目指しているの? 毎日の生活を送る上ではそんな強靱な肉体もどんなことがあっても折れないような精神も必要ない。ほどほどにあればいい。だから、今のままでいいの。頑張ることはいいことだと思うけれど、無理をして頑張ろうとすることで自分自身が苦しくなってしまうのだとしたらそれって本末転倒なんじゃないの。頑張ることが自分にとって抱えきれないほどの重圧やプレッシャーになるのだとしたらわたしは嫌だな。それに頑張ったところでたかが知れている。一人の人間がどんなに頑張って勉強したとしてもたくさんの人間の知恵の集合にはかないっこないし、どんなに体を鍛えて強靱な鋼の肉体を手に入れたとしても自然には勝てないし、ブルドーザーやショベルカーやら何やらの重機にはかなわない。所詮、人間がほんの少したくましくなった程度のことでしかなくて、だったらそのために努力したところでたかが知れてるでしょ。人間を向上させてパワーアップさせるという発想そのものを否定しようとは思わない。でも、それでできることなんて努力の割にたかが知れていると思う。それだったら脳の中に電子機器を埋め込んだり、体の一部か全部を機械化してパワーアップをはかった方が断然いいし、その方が効果的だ。要するに努力をやたらと賞賛する人というのはそのやった結果に対して無頓着なんだよ。少なくともわたしはその微妙なパワーアップのために人生の多くの貴重な時間を投入したいとは思えない。あと、現状を認めて肯定できないのって不幸だと思うよ。それってどこまで行っても「これでいい」「良し」って思えないわけじゃん。別の言い方をするなら、どんなに頑張っても自分はまだまだで本当の幸福な状態はこの先にあると幸せを先送りし続けているわけだよ。だから、いつまで経ってもこれで良しって思えない。もちろん、向上し続けようとする人だって立ち止まって「自分も満更でもないな」と思うこともあるだろう。でも、それじゃあ駄目なんでしょう? 常に向上し続けることこそが至上命題なのであって、満更でもないなって思うこと自体が彼らにとっては停滞であり駄目なことであるわけよ。わたしの体は俗に言うマッチョでも美ボディーでもない。でも、何も裸になって写真集でも出そうっていう話があるわけでもないのだから別にたるんでいようが三段腹だろうがいいの。「筋トレしろ」とか「みっともない。もっと鍛えろ」なんていうのは余計なお世話。わたしのこの平均的にたるんでいる体。これはこれで案外わたしは気に入っているんだからとやかく言わないでほしいな。
 わたしの脳内で繰り広げられた両者の言い分を聞いてみるとどちらももっともだなとは思う。頑張ること、今のままでいいとすること。両者にはそれぞれメリットがある。とここでわたしが思いついたのは両者のいいとこ取り。つまり、ほどほどに頑張るというあり方。いや、ほどほどに頑張るというよりは適度に物事をやると言った方がいいかな。頑張りすぎてもしんどいし重荷になる。けれど、今のままでいいんだと何にもしなければ成長も何もなくいつまで経っても今のまま。だとしたら適度にゆるやかに向上していこうとする第三のあり方がいいんじゃないかって思うんだ。自分に程良い負荷をかけて、疲れたら休む。目標も立てることは立てるけれど、あまりにも大きすぎる目標は立てず、ちょっと頑張れば達成できるくらいのものにしておく。頑張りすぎず、しかしだからと言って現状にずっと留まり続けているわけでもない。もちろん人によっては疲れてしまっていてとてもではないけれど何かをやろうなんて思えない人もいることだろう。そんな人は休みたいだけ休めばいいし、何が何でも今すぐに向上しろとか言うつもりはない。
 何というか極端なのが良くないのかもしれない。
 わたしが「そのままでいい」という言葉を聞いて思い出すのが祖父のこと。今はもういない祖父なんだけれど、この人は本当に今のままでいいという生き方をした人だった。
 まず読書を一切しない。自分はもう世の中のことをすべからく分かっていてもう読書も勉強も必要ないと達観していた。新聞などももちろん読むことなく情報を得るにはもっぱらテレビで定年退職してから亡くなるまでの少なくとも30年間は活字なんて読まなかったんじゃないかな。
 そして読書をしない上に運動も全くしない。いつも家の居間のソファーにただ座っていてうとうと居眠りをしていた。
 そんな感じで頭も体も使わなかった祖父は認知症になり、足腰も弱り要介護となった。もちろん、これらをやらなかったことがこうした結果へと直結したかどうかというのは断言できない。でも、この「今のままでいい」というあり方がこの結果を招いたのではないかという気がしてならないのだ。今のままでいい。自分は今のままで十分なのだから。そういった姿勢でいた結果、頭も足腰もどんどん機能低下していき、介護施設での生活を余儀なくされた。
 これに対して「頑張る」というあり方で極端なものとして思い浮かべるのがスポーツ選手と過労自殺をした人だ。
 まずスポーツ選手はとにかく限界を目指してやる。自分の限界と真正面から戦って自分に打ち勝ち結果を出そうとする。これは見る人々に勇気を与える。勇気と希望を与えて人々を感動させる。が、このスポーツ選手にとっての自分の価値とは勝てる自分なのだ。だから、勝てなくなると途端に追いつめられる。もちろん、スポーツの世界は今のままでいいと思っているようでは駄目だ。結果を出すためにもどこまでも向上していかなければならない。良しと思った瞬間、その瞬間がまさに終わりなのだ。
 過労自殺については悲しいばかりで頑張って頑張ってそれでももう無理だとなって自ら命を絶ってしまった。死ななければならないほどの仕事なんてないよ、と言ってあげたくなる。
 頑張るのも今のままを良しとするのも程度の問題だとわたしは思う。頑張りすぎるとしんどいし、程度によっては体や心の健康を損なう。今のままで良しとしすぎても体と頭がなまってしまう。そして、ゆくゆくは機能低下していき普通に生活することさえ難しくなってきてしまう。
 ズバリ、中庸がいいんじゃないですか。ほどほどに頑張ってほどほどに今のままでいいと自分自身を認める。今の状態だと少し頑張りが足りないなと思うならもう少し自分の手綱をしめて頑張ればいいし、ちょっとやりすぎ、活動しすぎだなと思うようであれば活動のペースを落として減速するなり休むなりすればいい。頑張るとしても持続可能な頑張り方をした方がいいと思うし、休むとしても休みすぎないようにして現状維持になるくらいまでにしておいた方がいい。
 何でわたしがこんな文章を書いたかと言うと、自分の迷いを晴らすため。頑張った方がいいのだろうか。それとも今のままでいいとした方がいいのだろうか、と迷いが生じたんだ。だから書いた。この文章がもしもあなたに刺さって何か得るところがあったら嬉しい。頑張りすぎのあなたにも、もう少し頑張りたいあなたにも両方参考にしてもらえるかと思う。でもね、最後に決めるのはあなた。だから最後には自分で決めてほしい。頑張るか、そのままでいいとするかどうかを。わたしはほどほどに頑張るのがいいと思います。わたしの私見、参考にしてくださいまし。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました