塩水

キリスト教エッセイ
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 わたしはふとある衝動にかられる時がある。今は慎ましく節度のある生活をしているけれど、放蕩の限りを尽くして、そしてお金がなくなったら放浪生活をする。そんな衝動にかられるんだ。何を言っているのか、と思うことだろう。自分でも何でこんなことをここに書いているのかよく分からない。
 わたしは不満があるのだろうか。今の生活に物足りなさがあるのだろうか、などと自分自身とその生活を見つめ直してみると、特に不満があるわけでもない。母との二人暮らしは思いのほか楽しく、穏やかで平凡ながらも幸せな時間が流れている。不満は、ない。
 けれど、わたしの中の変化を求めるもう一人のわたしが「もっと刺激をくれ」と時々顔を出すのだ。
 人間というのは複雑な生き物で、複雑ないろいろな面を持ち合わせている。自分の知らない自分もわたしの中にはいるようだし(深層意識的なやつ)、ともかくブラックボックスのようなそんな得体の知れなさがある。
 わたしは男性だ。男だ。だから、魅力的な異性を見ると自分のものにしたいと思ってしまう。そして心ゆくまで肉体的な快楽を味わいたいものだと思う。まぁ、これは仕方がないというか、わたしは聖人ではないのだから致し方ない。
 そうした欲求にただ獣のように従っていくとどうなるか。もちろんそうしたあり方がキリスト教と相容れるわけがなく、キリスト教を捨てることになる。そして、ただ己の肉体的な享楽にひた走る。それが良くないことだとは分かっている。しかし、わたしの本能的な情動的な部分がうずくんだ。やった方がいいいのか、やらない方がいいのか。実は少しばかり葛藤していた。
 そんなわたしに神様は先週の礼拝で牧師の説教を通してわたしに「それは塩水だ」と教え諭してくださった。飲めば飲むほど渇くのだ、と。ヨハネによる福音書でイエスさまがサマリアの女に「水を飲ませてください」と頼まれるあの聖書の箇所で、その女の生き様を通してわたしに示唆が与えられたのだった。その女は夫が5人いたといういわゆるふしだらな女性で、彼女は男性によっておそらく心の隙間、むなしさだったり空虚感を埋めようとしていた。あるいは男性から利用されて都合のいい女として生きてきた。その女がイエスさまという本当に渇くことのない生きた泉と出会い、その水を与えられる。わたしはその礼拝の説教を聞きながら、わたしがやろうとしていることをやったところで、渇き続けるだけなのだと思い知らされたのだ。愛してもいない女性と肉体的な関係を持つ。それもただ快楽のためだけに。それで本当に満たされるのか? それで本当に心が安らぎ穏やかな気持ちになれるのか? おそらく、ではなく、確実に「否」だろう。その行為は相手の女性を傷付ける。そして、わたし自身をも傷付ける。結局、お互いに傷付けあうだけ。そうした遍歴を繰り返せば繰り返すほど、空虚感は強まっていき、心の傷はどんどん増えていく。そして、それは塩水のようであって、飲めば飲むほど渇いていって、どんなにそれを続けても満たされることはなくて、平安が訪れることはない。
 さらにわたしはこう思った。実際に女性にふれなくても、たとえポルノであっても塩水のようなものではないか、と。ポルノを見終わった後に満たされた気持ちになったことは今まで一度もない。そうか、ポルノも塩水だったんだ。愛情の伴わない性愛、それは飲めば飲むほど渇いてくる塩水なんだ。ポルノをやめる方向に持って行った方がいいのではないか。そんなこともこの塩水のよう、というたとえから思ったのだった。
 宗教が性的な事柄に縛りをつけるのは、やはり、扱い方を間違えば不幸になってしまうからなのだろう。平安から遠ざかってしまう。穏やかな境地を破壊してしまう。人間関係をも壊してしまう。だから、縛りをつけて制限する。そういうことだったのかとわたしはすごく納得した。
 今日は重い話になってしまったけれど、ここまでお付き合いありがとうございました。お互い明るい光のほうを見ていきましょう!! ではでは、30分なので。じゃあ、またね~。

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