良かったことノート

いろいろエッセイ
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 最近、ヨガの道場での練習ができない感じになってきている。もう今日で4回も休んでいる。でも、こればっかりは仕方がない。先週は下痢が止まらなくて休んだのだから。そして、今日は左の肩胛骨のあたりが痛くて、首も心なしか痛い。というわけでお休みというわけなのさ。
 ってこんなわたしの個人的な事情、どうでもいいんじゃないかなって思う。それよりは何かためになるようなことを聞きたいと思っている人の方が多いんじゃないかな。
 ためになることか。何がためになるんでしょう? 何かいい話をプリーズってことなのかしら。
 月並みな話になってしまうけれど、いろいろな物事の有り難さをひしひしと感じるのは、そのことを失いそうになったり、失った時なのだと思う。健康を失って分かる健康の有り難さ。友達を失って分かる友達の有り難さ。または、失うところまではいかなくても、失いそうになって分かる有り難さ。人間、なかなかそうなってみないと分からないものなのでしょう。
 わたし自身、今回下痢になってみて、普通にご飯を食べられることがどれだけ有り難いかっていうことが分かった。普通に食べられる。それも美味しくいただける。何てそれは幸せなことなのだろうって思ったよ。そして、普通に元気なうんちが出ることの有り難さもひしひしと感じた。
 体のどこかが痛いことを通しても教わるところが多分にあって、何も痛みがないことってどれだけ有り難いのだろうって思った。しみじみそう思うよ。
 シャラ(*ヨガの道場のこと)で練習できることもどれだけ有り難いことかって、ここしばらく行けてない今、そうだなぁってしみじみと思うよ。
 そのことを当たり前にやれていたり、そのことを普通にできている時は何とも思わないのに、それを失いそうになったり、失ったりした時に初めて見えてくるそのものの有り難さ。だからこそ、いつもの暮らしに、日々の当たり前のことに感謝できる人でありたいなって思う。
 わたしは寝る前に10年日記と良かったことノートを書いているのだけれど、良かったことノートはすごく効くからオススメ。ただ普通の大学ノートに今日良かったことを3つ書くだけ、という実にシンプルなものでありながら、これを続けると思考が感謝モードになって、毎日の暮らしの中から良かったことを見つけるのがうまくなっていく。わたしはできるだけ毎日、良かったことを書くようにしていて、日々の習慣となっている(と言いながらも最近ちょいとさぼってしまう日もあるのだけれど。う~、正直)。
 それとは反対に悪かったことノートを書くようにしたらきっとメンタルが下がっていく。そして、不満が次から次に思い浮かんできて収拾がつかなくなるんじゃないかなって思う。
 良かったことを探しましょう、と毎日やっているわけだけれど、ほとんど良かったことが思い浮かばなかったり、2つまでは良かったことを書けてもどうしても3つ目が書けないという日もある。そんな時にはその日に起こったネガティブな出来事をその3つ目に書く。ただし、そのネガティブなことがその程度で済んでいること、というように書くんだ。本当はもっとひどい状況になっていてもおかしくなかったのに、この程度で済んでいるとそのネガティブなことでさえも良かったことに変換する。
 以前のわたしは反省点をその日の終わりに書くようなことをしていた。もっとこうすれば良かった。ああすれば良かった。これができなかった。これがダメだった、と。でも、それをやっていてもいい空気は循環してこない。反省することもたしかに大事だけれど、それ以上にポジティブでありたい。悪いことや良くなかったことではなくて、今できていることや今感謝できることに目を向けていきたい。そう思うようになった。
 よく良くないことの粗探しをひたすらして、つまらなそうに面白くなさそうにしている人って少なからずいる。でも、その生き方は楽しくないと思う。幸せをそれでは感じることが難しいのは言うまでもない。
 意外と、というか、案外ものは言いようとか考えようみたいなところがあって、どんなことからであっても良かったことや感謝できることというのは見つけることができる。そして、良かったこと探しをしていく度につまらなく思えていたこともパァーっと輝き出す。不思議なくらい輝き出すから試してみてほしい。今まで粗探しをしていたところをいいこと探しをするようにしてみる。するといい空気がパァーっと広がっていく。それはまるでいい香りが広がっていくかのようで、人生もそれと共に好転していくかのよう。
 物は試しで、失う物と言ったら大学ノート1冊くらいだから、まぁ試してみてほしい。お金もかからず人生が好転し出すからやってみて損はないですよ。お試しあれ。

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