最近どう?

いろいろエッセイ
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 料理人、大工さん、その他職人と呼ばれる人たちが欠かさずやっていること。それは道具の手入れだ。わたしは大工さんがどの程度の頻度で自分の道具の手入れをするかは知らない。けれど、料理人が毎日自分の包丁を研ぐという話は聞いたことがあって、あぁ、道具の手入れってすごく大事なんだなと当たり前のことながら気付かされて「へぇ~」と思ったものだった。
 わたしは母と暮らしているのだけれど、よく「調子はどう?」と聞く。それとか「最近どう?」などと毎日一緒に暮らしているのにそれでもたずねる。そうすると母は何か言う。言ってくれる。こうこうこうでこうだと自分のことを話してくれる。それは母に対してだけではなくて、精神保健福祉士のWさんにも毎回ではないものの、少なくとも近況をたずねることはする。すると、事業所がいまこうこうこうでこうだとまた自分の話をしてくれる。ヨガの先生にも聞く。「先生、最近どうですか?」すると、連休中に家族で出掛けてどうだったこうだったといった自分の話をしてくれる。こうして「最近どう?」とたずねるわたしは顔色伺いすぎなのではないか、などと思われる方もいることだろう。しかし、人間関係において一番大切なこと。それも自分が大切だと思っている人への最上の愛情表現とは常に気遣うことだとわたしは考えている。いわば道具の手入れ。メンテナンスを他者に対してもするのだ。
 心理学の実験でたしかこんな実験があった。それは毎日短い時間であっても話をするのとたまに長い時間話をするのとではどちらがその人と親しくなれるかという実験で、意外なのか、それとも当然の結果なのか、たとえ毎日5分であっても毎日話をする方が一週間分まとめて長い時間話をするよりも断然親しみを覚えるらしいのだ。これは常に気遣ってもらえている感覚がまめに話をしている方がより感じられるからなのだと思う。だから、世のお父さんが家族サービスとしてひと月に一回大きな旅行などへ行けばその間何もしなくていいと思うというのは現実に合っていない。家族はまめにできるだけ頻繁にコミュニケーションを取ってほしいと言わなくても思っている。たまにやってきて「さぁ、家族の団らんだ」などと会話をするようでは「日頃ほっぽりだして無関心なくせにこういう時だけ虫がいい」などと思われてしまうのが関の山なのだ。
 自分自身に当てはめて考えてみれば、会うたびごとに「お元気ですか?」とか「最近どうですか?」と気遣ってもらえればきっと何よりもそれは嬉しいだろう。たまにやってきては長々と会話をする、では得られないものがやはりそれにはある。まめに頻繁に「あなたのことに関心がありますよ」というメッセージを送る。この面倒くさいとも思える日頃の態度。これが人間関係をうまく築けるかどうかにとって大切なことだとわたしは思うのだ。
 と偉そうなことを言いつつもなかなかこれが難しい。いつも気遣うというのはなかなか大変なことなのだ。一回あたりの労力は大したことはないのだけれど、まめに、毎回、頻繁にとなれば根気が必要とされる。道具の手入れ、あるいは植物への水やりともこれは似ていて、長い期間それをさぼっていると、道具だったら錆び付いてしまって性能が落ち、植物だったらもちろん枯れてしまう。
 続ける。まめに、忍耐強く、人間関係が続いている限りそれを続ける。どうしてもさぼりたくなってしまったり、一度で済ませたくなる誘惑がやってくるけれど、それでも続ける。気遣い、気遣い、気遣う。
 なぜここまで面倒くさいことをあえてやろうとするかと言えば、そのお手入れをする、水やりをする、つまり気遣う相手が自分にとって大切だからだ。大切なものは放っておかない。どうでもよくないからこそ放置してはおかない。大切なんだ。大切だからそれを大切だと思っていることを物だったり相手だったりに示すために、わたしはできる限りのことをしようとする。反対に、大切でないものは放っておけばいい。別にそれは大切でも何でもなくてどうでもいいのだから放っておけばいいし、自然と放っていてそのままになっていることだろう。
 こうした人間関係を持とうとすればおのずとできる範囲が限られてくるのは言うまでもないことで、わたしを含めた人間というのは有限な存在で有限な肉体、空間、時間の中を生きている。だから、限界というものはある。もしも毎日気遣う相手が1000人いたらどうだろう。とてもではないけれどそこまで手を回してカバーできるはずはない。どうしても一人ひとりに割ける時間は短くなるし(一人につき1分とか?)、その対応の仕方、質も下げざるを得ない。そういうこともあるからだろうか。わたしはあまり人間関係を広げようとはしない。したいとも思えない。一時期は友達がいた方がいいだろうと友達を作ろうとしたこともあったけれど、その労力とかかる時間を考えたらそこまでして友達要らないなって思ったんだ。まぁ、それは置いておくとしても友達が何百人もいる人って大変だろうなって思う。連絡を取るだけでも時間がかかって大変だろうなぁ。もちろん、そういう人であっても友達の中でもさらに大切な親友はきちんと絞り込まれていて、友達のいないわたしなどと親密な人間関係の規模はあまり変わらないのかもしれない。大切な人はたくさんいなくていい。少しだけいればいい。結論はそういう風になると思う。というか、そうでなかったら無理だよ、本当。
 普段あまり「最近どう?」などと相手にたずねない人はその言葉を身近な人にかけてみると新しい発見があると思う。あなたがたずねたその人はきっと自分のことを長々と教えてくれることだろう。話してくれることだろう。人間というものは誰かから愛されたいと思っているもの。愛されたいということは大切にされたいということ。そして、大切にされるということがどういうことかと言えば、いつも心配されたり気遣ってもらえることを意味するのは言うまでもないだろう。
 わたしの知人に「優しくしてほしいってみんな自分に言うけれど、優しくしろって言うのはお客様扱いしろということなのか?」などと言う人がいる。そうではない。もっと、優しくするというのは簡単なことで何もお客様扱いしなければならないわけではない。優しくしてほしいというのは大切にしてほしいということ。具体的には日頃から気にかけて気遣ってほしいということなんだ。優しくするとは、大切にするとはその物だったり人のことを常に心に留めていてそれに何か問題が発生したり困ったことが起きないかと心を配りていねいに扱うことなんだ。ていねいに、ていねいに優しく大切に扱おうとするなら、「面倒だからその手入れやお世話をまとめてやってもいいですか?」などという発想は出てこない。誰も猫に一ヶ月分のキャットフードをまとめてあげないように、愛情もこまめに注ぎ続ける必要がある。一回に出し過ぎると与える方は疲れてしまい、受ける方も「もういい」となってしまうから、持続可能な範囲で、しかしこまめに与える。それが大切だと思う。
「最近どう?」とみんながみんな自分のことばかりではなくて相手のことを気遣えるようになったらもっと世界はより良く、そして平和になっていくことだろう。などと偉そうなことを言っているわたしだけれど、わたしだって気遣われるのは嬉しいものの、気遣うことが時々重荷に感じられることがある。でも、そう感じられるならまた気遣いたいという自発的な気持ちが起こるのを待てばいい。無理して自分が苦しくていっぱいいっぱいなのに気遣うというのはそもそも無理な話だ。気遣える時に気遣えるだけ無理のないようにやっていけたらと思っている。これを読んでくださっているあなたもぜひ「最近どう?」と大切な人にたずねてみてほしい。そうしたら堰を切ったようにその大切な人から言葉が流れ出てくるかもしれない。その言葉をまるで待っていました、かのように。
 一言で言えば面倒。でも、この少しの気遣いが何よりもこの一言を発した人をも幸せにする。幸せはこのちょっとした一言から広がっていくんだ。愛するとか大切にするってとても手間がかかって面倒。でも、だからこそそれはどこまでも尊いし価値があるんだな。

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