特大ホームランを打ちたいとは思わなくなって

いろいろエッセイ
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 最近のわたしを見て母は言う。「穏やかになってきたね」と。「そうかなぁ?」と返すわたし。母のこのさり気ない言葉、当たっているように思えないこともない。何か最近、心がかき乱されることがなくなってきたんだ。とは言いつつも時折、ネガティブな思いだったり感情がわいてくることはある。でも、それは本当に稀と言ってもいいくらいで、持病の精神疾患も良くなってきたように感じるんだ。
 最近の出来事で一番大きかったなぁと思うのは、このブログにも書いている通り、ミニマリズム。このミニマリズムがわたしに巣くっていた貪欲と嫉妬心を洗い清めてくれた。本当はキリスト教からこれくらいの恩恵を受けられれば言うことはないのだけれど、それでもこうしたネガティブなものから解き放たれてすごく身軽になった。これもおそらく神様のおかげ。って結局クリスチャンなんだよなぁ。らしいこと言ってるし。
 成功するのは何のため?、と言えばたくさんのお金を手に入れる、そして人々からの賞賛を得るため。そうして成功すれば社会的に高い立場も手に入ることだろう。
 が、ミニマリズムはこうしたものをすべて粉砕してくれた。木っ端微塵にしてくれた。わたしにとっては名誉や人々からの尊敬や賞賛ももちろん得たかったけれど、何よりもお金がほしかった。何かで成功してまとまったたくさんのお金を手にして、広い家に住んで贅沢に暮らしたかった。さらには聡明で美人ないいとこのお嬢さんと結婚して、子供は2人くらい作って、星家を繁栄させる。そう、それはまさに栄光の道。サクセスストーリー。……と地に足のつかないことを考えてひたすら夢見ていたんだけれど、もう全部なし。それ必要ないから。却下の一言。抹消で終わり。それほどミニマリズムは強烈だった。つまり、特大ホームランを打って、人生を大逆転させようとばかり考えていたのが大きく変えられたのだ。
 そもそも、特大ホームランを打つのって何のため?、と考えてみれば野球の試合でチームが勝つためではあるものの、それもありながら、それ以上に自分自身が活躍してお金や名声を手に入れたいからという動機が強いと思う。でも、もうわたしはお金も名声もほしいとは思わなくなった。やせがまん? いえいえ、何かひかれなくなった。でも、手に入るのであれば、向こうからやってきてくれるのであれば無理に拒んだりはしませんよ。でも、自分から強引に積極的に手に入れたいとはもう思わないんだ。
 本当の豊かさって何なんだろう、って考えていくと、これは受け売りではあるんだけれど、「これで良し。これでいい」と満足できることだと思うんだ。だから、どんなにいろいろなものを手に入れても、その手に入れた時だけしか喜びや満足感が得られない、という状態ではない。もっと、ゆるやかに穏やかに幸福感が持続していく感じと言ったらいいかな。
 これをたとえで説明するなら砂糖が適切だと思う。お砂糖って食べた瞬間、すごくテンション上がるよね?(上がらない?)頭の中に快感が走ってすごく心地良くなる。気持ち良くなると言ってもいい。でも、それは束の間のことで、その気持ちよさや心地よさはすぐに消えてしまう。あんなに気持ち良かったのに。となれば、またあの感じを手に入れるためには再び砂糖を食べるしかない。砂糖によって血糖値が急激に上がって気持ちよくなる。気分が上気する。でも、すぐに今度は激しく血糖値が下がる。気持ちが滅入る。要するにこれは安定しないんだな。
 一方、血糖値が上がりにくい食べ物もある。野菜とか玄米は血糖値が上がりにくい。だから、ドカンと上がらないかわりに、ゆるやかに血糖値が上がり、その状態が持続する。時間が経てばそれなりには血糖値は下がっていくけれど、砂糖の時のように乱高下したりはしない。
 以上の説明からも分かってもらえたように、わたしは砂糖を食べ続けるような生き方はしたくないんだ。むしろ、野菜や玄米を食べてゆるやかな幸福感を持続させていたい。そう思うんだ。
 ここで砂糖がくせ者なのはどんどん量が増えていってしまうこと。最初は10gのお砂糖で満足できていたのが、20g、30gとどんどん増えていってしまう。しまいにそれがエスカレートしていけば、四六時中、砂糖を食べていることになるだろう。主食、砂糖みたいなね。こうなったらおそらく糖尿病になる。そして、肥満にもなっている。健康を害することは確実で寿命が縮んでしまう。
 これがモノだったり他者からの尊敬や賞賛だったりした場合には、どんどん満足するために要求するものがエスカレートしていく。指輪だったら1万、3万、5万、10万円とどんどん高価なものになっていく。尊敬や賞賛もありきたりのものではきっと満足できなくなっていく。
 今言っている話って麻薬中毒みたいなものだよね。満足するために必要なものがどんどん高価なものになっていったり、量が増えていったりする。となれば、その先に待っているのは立派な依存症でありましょう。だから、だからこそ、貪欲に次々に何かを手にれようとするのではなくて、自分が今持っているもので満足する、少しのものだけで満足するという技術が必要になってくるんだ。激しい刺激をドッカン、ドッカンやるのではなくて、おだやかな刺激をゆるやかに楽しむ。打ち上げ花火ではなくて線香花火を楽しむ、みたいな。線香花火って言うと、「何だ、線香花火か」と思う人もいるかもしれないけれど、線香花火だっていいものですよ。線香花火には線香花火の持ち味がしっかりとある。
 本当に豊かな人とは少しのもので満足できる人。それも特別、高価なものでなくてもそれから幸せをしっかりと感じることができる人のことだと思う。そういう人はもちろん幸せ探しがうまくて、不平不満からは距離を置いて生きている。反対に、ってもう説明する必要はないですけど、あえて言うなら、本当に貧しい人とはどんなに多くのものを手に入れても決して満足しない人。いや、満足できない人と言った方がいいかもしれない。どんなに高価なものや世間から価値があるとされているものを手に入れても、それでもまだ足りない、足りないと貪欲に求め続けることしかできない人。今持っているものや現状に満足できないから、いつも不平不満を言っている。幸せ探しどころか不幸せ探し、粗探しの名人。
 そういう風に考えると、お金だって名声だって(普通の人の場合、名声と言うよりは他者からの評価とか評判)たくさん有り余るほどには必要ない。必要最低限あればいい、と言い切ることは今のわたしにはちょっとできないけれど(まだまだミニマリスト見習い中なので)、それでも必要最低限とちょっとの余裕くらいあればいいんじゃないかと思う。こう思えたことによって、何も特大ホームランをかっ飛ばす必要もないな。ほどほどにやれてればいいかな、って思えてきたんだ。だから、ぼちぼちたまにヒットがあればいいかなってね。あるいは、ヒットが何もなかったとしても、わたしは生きているのだから、しっかりと人生という打席には立っているし、立てている。まぁ、審判に暴言を吐いたり、持っているバットで相手チームを叩いたり、おもむろにユニフォームを脱ぎだして全裸になったり(?)しなければいいでしょ。
 わたしが打席に立っている野球の試合というのは、大リーグでもなければプロ野球でもない。多分、何か趣味でやっている人たちの草野球、といったところでしょう。でも、それならそれでいいと思う。となれば、メチャクチャ早い球が飛んでくるなんてことはないし、ヒョロヒョロ球なのかもしれない。で、それを星さん、打ちました~!! ヒット。内野ゴロ、てな具合にやっているのだろう。そんな調子でやっていたら、たま~に(10年に一度くらい?)ホームランを打つことがあるかもしれない。そうしたらその日の草野球のチームのヒーロー。別にそこでホームランを打ったところでプロ野球のように何かお金をもらえるわけではない。でも、いいじゃないですか。そのホームランにだってそれはそれで固有の何物にも代え難い価値があるんだからさ。
 要するに、わたしは安い男なのかもしれない。安い、大したことのないもので満足するようなそんな男。でも、その安い、傍から全然大したことがないようなことで喜べる、満足できる、そんな人でありたいと思う。高価なもの、すば抜けたものでしか満足できないというのは最も心のあり方として貧しいのだから。
 些細なこと、小さなこと。安いもの、特別高価なわけでもないありきたりのもの。それを喜べて満足できるのが本当の豊かさなのだと思う。というわけで華やかなホームランを狙うのではなく、とりあえず打席に立つこと。そして、あわよくばヒットを。わたしにはわたしの持ち味があるのだから、それを生かしてやっていけたらなと思う。少なくとも大リーガーとか日本のプロ野球選手と自分を比べて卑下する必要なんてない。それだけはたしかだと言える。



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