探し物

いろいろエッセイ
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 探し物は何ですか? 見つけにくいものですか? かばんの中を机の中を探したけれど見つからないよ。
 とは井上陽水の名曲「夢の中へ」の冒頭の歌詞。そして、探すのをやめた時、見つかることはよくある話で、と続く。
 わたしは今、正直、働くかどうかということについて考えている。思い悩むまではいかないけれど考えている。果たしてわたしはどんな生き方を望んでいるのか? 自分自身の内なる声が聞こえなくなっている。
 ある人は言う。働くのはいいよ、と。いや、人間は働かなければならないと言う人さえある。そして、これをやるといい、あれをやるといい、とみんな自分のやっていることをすすめてくる。農業をやっている人であれば農業をすすめるし、ヨガをやっている人はヨガを、読書や勉強に重きを置いている人はそれらのことを、といった具合に。
 でも、最後に決めるのは自分だ。その人じゃない。そして、すすめている人は何も責任なんて取ってくれないから、自分でやって何か問題が発生したら自分で落とし前をつけるしかない。まさに自己責任。人に訊けば何かを言ってくれることだろうとは思う。でも、それだってその人の個人的意見でしかない。もちろん、本の著者や不特定多数にこれがいいですよ、とすすめているものよりはわたしの信頼している人は断然わたしのことを知っていてくれているからまったく見当はずれとなることはないとは思う。けれど、その人だってわたしと24時間一緒にいるわけではない。同居している母とだって四六時中、すべての時間を共有しているわけではないから、もっともわたしのことをよく知っているはずの母であっても的確なアドバイスができるかと言えばすこし頼りない感じがする。
 自分のことを最も知っているのは自分自身と神様くらいなもので、それ以外の人たちからのアドバイスといったものはあてにならないことが多い。というか、しっくりこないことが多いというのが今までの感想。
 ここで由緒正しきクリスチャンだったら神様と対話して方向性を導いてもらうことだろう。しかし、何かそういう気持ちにはわたしはなれない。それよりは、自分自身の内側に問いかけてその声を聴いていきたいような、そんな気持ちでいる。
 わたしは自分自身に問う。あなたは何をしている時が一番幸せですか、と。
 自然の中でおいしい空気を吸ってゆったり過ごしている時。ヨガをしている時。瞑想している時。ヨガと瞑想が深まって静寂が訪れた時。やりすぎない範囲で知的活動ができている時。母と楽しく話をしている時。そして、執筆している時かな(これもやりすぎない範囲でやれている時)。
 何だ、いっぱいあるじゃないの。あったじゃん。ということをはそれらを仕事にできるかどうかはともかくとして、それに取り組んでいる時間を長くすればいい。仕事はとりあえず、今は生活するのにはありがたいことに困ってはいないから、今のままぼちぼちやっていけばいいんじゃないの?
 森の公園へと足繁く通い、ヨガに多くの時間をしっかりと割き、瞑想もする。そうすることによって、わたしにとっての平安を求めていく。安らぎを追求していく。そして、読書もするし、母との時間もゆっくりと楽しむ。執筆をして日々の気付きなどをブログで読者の皆様と共有していわばお裾分けをする。
 そんな感じで過ごすとしたら案外時間はないのかもしれない。わたしの手持ちの時間から仕事の時間を切り出すことはわたしにとってのこうした気ままな時間を削り取ることになる。そこまでしてお金ほしいのかな? どうしても働いてまでしてやりたいこととかあるのかな? 今のままでも良くない? などとこんな調子だからいつまで経っても星は無職のままなんだよ、と苦言を呈される方はいるかとは思う。でも、これはわたしの人生だからね。わたしの人生なんだからわたしに決める権利がある。少なくとも誰かを傷付けたりなどはしていないから、ま、いいんじゃないの?
 祖父の葬儀で弟が親戚のおじさんから「立派になったね」とほめられていたのを思い出す。結婚して所帯を持ち、仕事も休まずやってマイホームまで持った。でも、わたしの人生はそのおじさんに「立派になったね」って認めてもらったりほめてもらったりするためにあるわけじゃないし、そのためにわたしは生きているわけではない。わたしは甘えがあることは重々承知の上でそれでも自分が納得する生き方をしていきたい。誰かからほめてもらうために、他者の承認に全面的にすがって生きていくつもりはない。そうではなくて、自分からの尊い尊い承認を得るためにこれからの人生のいろいろな選択をしていきたい。だから、他人本位ではなくて自分本位なんだ。わたしの方向性というか生き方の指針は。
 探し物は探すまでもなくもうすでにわたしの目の前にあったし、探し物でさえもなかった。しっかりとわたしの目の前にあったのだ。そして、それを中心とした生き方を今のわたしはやっている。仕事もしていないし、学校に行っているわけでもない。お家でぶらぶらしているわけだけれど、この生き方が一番贅沢な生き方なんじゃないかっていう気がしてきた。自分のために毎日の多くの時間を使う生活。敬虔なクリスチャンや常識人から「そんなんじゃダメだ」とお叱りを受けることは確実。でも、何もわたしは彼らや良識ある多くの人々から「よくやってるね」って言われるために生きているわけではない。そんな人生、わたしにとっては虚しい。と言いつつもやっぱり気が変わって数ヶ月後にはお仕事をしているかもしれません。人間は変動しているような存在だからね。
 自分にとって心地いい生活をしていきたい。ぬるま湯? まぁ、いいじゃないの。よしとさせてくださいな。

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