時計を見る。それはデジタル式の置き時計で絶えず時間が流れていく。これを見ていると激しいまでの強迫観念のようなものがわいてくる。そのせいなのか、それが原因なのか。またしても今日不調になった。
時計を見る。そうするとまた時間が流れている。さっきまで18時48分だったのがもう56分にもなっている。8分も経っているわけだ。けれど、その間何をしていたのか記憶がない。その8分間、有意義に過ごせていたのかどうか分からない。何をしていたのだろう? って記憶がないと書きながらも記憶はある。その時にはこの文章を書き始めようとしていた。でも、はっきりとその時のことを鮮明に思い出すことができない。
今日の18時48分18秒はもうすでに過ぎ去ってしまった。もう戻ってこない。これがこわい。こわいんだ。
んって、星さんさぁ、全然言ってることとやってることが違うじゃないの? 星さんが今執筆中のご本には偉そうなこと書いてるんでしょ? だったらその通りやっていつも元気はつらつでいなさいよ。でなかったらその本に説得力はないって。
たしかにそうだけれど。
でも、わたしは何を恐れているのか? 何が怖いのだろう? 死ぬこと? それとも消えてなくなってしまうこと? そうじゃなくてこわいのは、時間がなくなってしまうことがこわいんだ。 そしてさらには自分が年老いていくということが。それが不安なんだ。一人ではやっていけなくなって誰かのお世話になるかもしれないことがこわいんだろう、きっと。
恐れ、不安、恐怖心。すべて今から未来へと思考が飛んでしまっている。今に集中できていないってこと。
ハイ、あなたの人生はこれで終わりです。ここまででした。ってことになったらもう仕方がないのかな? やれるだけのことをやったのだから良しとすればいいのかな?
もしかしたらだけれど、今というのは持続しているものなのかもしれないな。いつも今で、人生のどこを切ってもその時は全部「今」。今ではない今なんてそもそもない。いつも24時間365日死ぬまで今の連続。今がひたすら連続している。
さらに今気付いたんだけれど、過去なんてないのかもしれない。ただ過去と呼んでいるだけであって、今しか存在しないのかもしれないとも思うんだ。そして、未来もない。明るい未来とか言うけれど、未来もない。あるのは今、ただ今の今だけ。あるのは今だけ。過去も未来もない。だから、今を生きて今に集中して今を大切にするしかない。今しかない。今、今、今、ひたすら今が続く。
それはまるで今繰り広げられる実況中継のようなもの。競馬の実況中継を想像すれば、あれには今しかない。今、どの馬がどうで、別のどの馬がどう。今、今、今、今と、実況中継はとにかく今に集中する。今を生きている。その実況中継をしている時には過去なんて考えないし、輝かしい未来はあるものの、ともかく今どうかということが一番大事で重要。
わたしの不調っていうのは現代的な病なのかもしれない。時間病と言ってもいいかもしれない。今という波に乗ることができなくなるのがわたしの症状なのだと思う。まるで今という波の前で取り残されているような、まるで迷子にでもなっているような、そんな調子なのだ。
今って何なんだ? これは難しい。当たり前すぎて。この今という不可解な当たり前のことの前で今をつかめなくなる。時間ばかりが過ぎていき自分は何もその間できないような感覚に陥るというのは、時間を切り刻んできた罰なんじゃないか。人間が切り刻めないものを無理にでも計測可能にするために切り刻む。それゆえに無理が生じたんじゃないか。
なんて堅苦しいことを言わないで、今を味わえばいいんじゃないの? これから先も今があるかどうかは分からないし、保証されていないけれど、それでも今は確実に今があり与えられている。これは神様からの贈り物だとも言える。
今を深呼吸する。今を大きな心で受け止める。そして、のびのびと今を味わう。大好きな今というこの時をただただ楽しんで味わう。「今」はまだわたしから取り上げられていない。だから、存分に今を味わって満喫していい。そのための手法がヨガであり瞑想なのだった。忘れてたよ。
過去も未来も切ってみれば金太郎飴みたいにあるのは今だけ、ってちと違うかもしれないけれど。まぁ細かいことはいい。
過去や未来のことで頭がいっぱいな時、不安だったり過去のことを後悔したりする時、わたしたちは今をなくしてしまっている。見失ってしまっているんだ。だから、そうではなくて今というこの離れようと思っても離れることのできない、けれど、それ自体が本当に恵みであるこのあり方に戻ってくる必要がある。まだ起こってもいないことを考えたり、過去に起こったことを考えたりして、それらのことのためだけにせっかくの今を浪費してしまうのはもったいないとも言える。今は今として存分に使わせていただく。今を最大限に活用してやりたいことをやっていく。そのために今はあるのだ。今は今として使うことに意味があり意義がある。何も未来や過去のことで持ちきりにするために今があるわけではないんだ。今は今として使ってもらうことを求めているし、それが正しい使い方だ。
って、って、真面目になっとる~。なんザマスか。この真面目な文章は。醜態をさらしているザマスよ。ぐだぐだ不調日記はふざけるものだというあなたの中のルールは一体どこへ行ってしまったザマスか?
えーっとですね。まぁ、真面目な回があってもいんじゃないの。毎回ぐだぐだ不調日記でふざけてても読者は飽きるしね。ガツンとどストライクの真面目な回があってもいいと思うんだけどな。
だから読者が離れていくんザマスよ。ルールは守るべきザマス。
まぁ、離れていくんだったら仕方がないですね。なるようになりますから。別にそれでいいんじゃないかと。去る者は追わずということで。むしろウェルカムでありたいですね。
と、また執筆に助けられているわれらが星どん。果たしてぐだぐだ不調日記はどこまで続くのか。続けたくないもののそれでもおそらく続くんだろうなぁ。続いてしまうんだろうなぁ。これだから精神疾患は大変なんです。常に精神的不調と隣り合わせだから。そして、下手をすると死とも隣り合わせになることもあるもので。
人生のどこを切ってもそこは今。いいことに気が付いた。今を与えてくださっている神様に感謝。今が今のところはあるので今を生きていきたい。まぁ、いつも今なんですから当たり前と言えば当たり前なんですけどね。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。