今を生きるということ

いろいろエッセイ
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 以下の文章は今朝わたしが瞑想をした後に綴ったものでとてもいいことに気付けたのでここで皆さんとシェアしたいと思う。

 今この瞬間がどうかということ。今が充実していて、今が輝いていて、今に満足を感じるならそれでいいじゃないか。何が不足なんだ? 何が足りないんだ?
 今この瞬間がすごく幸せならもう何も要らないじゃないか。お金がなくても、人々から賞賛を得られなくても、名誉や社会的な地位が得られなくても、そんなものは今の輝きの前では何も意味をなさない!! それに自分が今ここで幸せを感じることができているならそれを他の人たち(つまり外野)からどう言われようが関係ないはずだ。
 セミは鳴いている。そして過去でも未来でもなく今を生きている。そして今を生きて生きて最期にはコロリと死ぬ。それでいいじゃないか。難しいことをああだこうだと言わずに今を幸せに生きればそれでいい。それを他の人たち(外野)はジャッジして評価して裁きたがる。批判さえする。でも今が幸せな人に対してはそんなつまらない小言は意味をなさない。そうした人のことに難癖付けてその人(たち)自身今を幸せに生きることができていないのだから気の毒な人(たち)なんだ。
 人からの評価(アクセス数)、他の人の様子なんて気にしているだけ時間と感情の無駄遣いのようなもの。それよりも自分自身の今に集中し、今というこの時を生きた方がいい。その方が明らかに賢い生き方だ。人からの評価やまわりの様子ばかりを気にして今という最も尊い時を生きられないのはとてももったいない。
 わたしにはもう既に黄金以上のものが与えられている。それが今という時であり、それは何物にも代えがたい。
 人からの評価によってわたし自身の本来の価値が上下することはない。他の人の様子を知っても、あるいは他の人と比べても何も得になることはない。だったら自分自身のことに集中して、今を充実させることを考えた方がいい。それこそが本当に生きることなのだと思う。

 わたしは言うまでもなく人からの評価を求めていた。そして、他の人と自分を比べてしまっていた。でも、気付いた。人から評価されなくても、誰かと比べて自分が劣っていることを突きつけられても、わたしはわたしのことに集中していよう、と。ノイズ(雑音)は当たり前のようにいろいろなところから入ってくる。そして、わたしを脅かす。そのノイズにとらわれないようにする。とらわれないようにして、自分自身がしっかりと生きる。このシンプルなごくごく当たり前のこと。でも、わたしを含めた多くの人がこのノイズに完全に振り回されて人生の喜びだったり輝きが暗くかき消されてしまっているように見える。もちろん、自分のことだけしか考えないという利己的な態度は考え物だろう。自分が気持ち良ければそれでいい。他の人なんて知らないし、関係ない。でも、そういうことをわたしは言いたいのではなくて、まずは自分自身が生の喜び、この瞬間の充実を感じることが大切ではないか、ということを言いたいのだ。まずは自分自身を満たす。自分自身を喜びでいっぱいにする。そして、余力があればそれを他の人のためにも回して人のためになることをする。でなかったら、自分はカラッカラでボロボロなのに、それでも他の人のために奉仕をしているような不健康な人間になってしまう。まず自分を満たす。話はそれからではないかと思う。
 と言いつつもわたしたちは人から認められたり評価されることによって自分自身の価値を見定めているところがある。人からほめられたり、認められるのは本当に嬉しい。人間にとっての快楽の一つと言ってもいいほどの美味なるものだ。しかし、人からの評価が自分自身の価値を決める唯一の物差しとなってしまうと途端に不安定になる。もちろん、誰からも承認されずに生きるということは苦行だし、凡人のわたしたちには無理だ。どんなに孤独を愛する人だって認められれば、あるいは愛されれば嬉しいだろう。嫌そうな顔をしながらも内心満更でもなさそうなように。
 今を生きる。今を今生きなかったら、いつ今を生きるのか。どんなに長い時間も結局は今の積み重ねのようなものでしかない。と言っても常にキラキラ光り輝いていよう、というのは無理な話だ。だから、ぼちぼち今をキラキラ輝かせる。それくらいなら誰でもできるんじゃないかと思う。
 とにかく今という時がある。だったら、それを楽しんで有意義に用いた方がいい。その今という自分の時の過ごし方を誰かに評価してもらったり、誰かと比べて競ったりするのではなくて、純粋に楽しんで幸せを感じるようにする。昨今、人はネット社会になってより何かを評価するようになったと思う。そして、人と比べるようにもなった。
 わたしの時間の過ごし方、つまり人生を誰かは酷評するかもしれない。あるいは誰かは賞賛するかもしれない。でも、そのことによっては、ほめられてもけなされてもわたしのこの今を生きているという喜びとは関係がない。それは誰かの評価であって判断でしかないのだから当然と言えば当然だ。けれど、その評価が自分に返ってくることによって気持ちは簡単にかき乱される。特にネガティブな評価はせっかくの幸せな気持ちを台無しにしさえする。だからこそ、これからの時代、他者からの評価というものから距離を置いた方がいいのかもしれないと思わざるをえない。所詮、それは他人の意見であって感想でしかないのだから、うまい、まずいのような好き嫌いを述べているに過ぎないのだ。何か料理を食べてうまかったらそれでいいじゃないか。自分がうまかったらそれでいいじゃないか。どうして全ての人からの同意を求めようとするのだろう? 求めようとしてしまうのだろう? 身近な人、信頼のおける人からの同意だけではダメなの? どうして特に親しくもない人たちからの評価を真に受けて、そして気持ちを落ち込ませるなどという無意味なことをやっているのか。自分からの承認だけでは心許ないとしても、大切な人たちから共感してもらえればそれで十分じゃないか。
 じゃあ、何でそれならわたしがブログをやめないかと言えば何でなんだろう? やっぱり賞賛が欲しいのかもしれない。ここまでそうしたものを批判してきたわけだけれど、それでも得られるのなら賞賛が欲しいということなのだろうか。いや、今思ったのはいいものを独り占めしておかないでシェアしたいという気持ちがあるのかもしれない、ということ。わたしは毎日生活して生きているわけだけれど、そうしていると気付きがあるんだ。「すごくいいことに気付けた」とか、「これは他の人にも教えてあげたいな」とか思う時があるんだ。それをシェアする。だから、言うならばこのブログはボランティアみたいなものだと思う。それもほとんど求められてもいないのにやっているような、そんな必要とされていないことを一方的にやっているような、そんなボランティア。そんなの迷惑なだけだよ、という気がしないでもない。わたしのこの営みは無駄なものであって誰の役にも立っていないのかもしれない。でも、一人であっても何か役に立つようなこともあるかもしれない。だから続けているのかもな、とわたしは思う。たとえるなら、以前もこのブログで書いたように、家で作った出来があまりいいとは言えないような野菜を家の前に「食べてください」と書いた紙と共に置いておくような、そんな感じだろうか。
 大手予備校の先生の林修先生は「今でしょ」と言った。わたしもそう思う。今なのだ。今しかなくて、今以外にはないのだ。何も今受験勉強すべきでしょ、という意味ではなくて、今、今を味わうべきでしょ、とわたしは言いたいのだ。そして、今を大切にする生き方をしていって、それが1年、5年、10年、30年と積み重なっていけばそれこそが素晴らしき人生なのだ。反対に、今を大切にしない生き方を同じように積み重ねていけば不満だらけの面白くない人生となるだろうと思う。
 人からの評価や他の人の様子に惑わされることなく、今をしっかりと生きていきたい。それこそが今を生きるということなのだから。



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