水のようにしなやかに

いろいろエッセイヨガ
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 言うまでもなくわたしの文章は求められていない。人々から必要とはされていないし、こうしてブログという形で無料で公開してもそれを必要とはしてくれない。
 まぁ、一言で言ってしまうとそれが寂しいんですね。寂しいんです。誰からも必要とされていないっていうのが(誰からもと言ってしまうのは言い過ぎでわずかな人たちからは必要とされているかもしれない)。
 でも、それならそれでいいと今は思える。それはわたしの精神状態が朝散歩によって良くなってきているせいでもあるのだけれど、わたしはわたしでいい、と思えるようになっってきたことが大きい。というか、世の中にはわたしとは比べ物にならないくらいすごい人たちがいて、そういう人たちの文章だったり仕事だったりが注目されて必要とされて、高値を付けられる。だから、わたしにできることは平凡な人間が書くような平凡な文章を書いて、それが評価されなくてもそれに対して異議を申し立てないこと。それくらいがちょうど分に合っている。
 そもそも、何かにおいて負けないようにする最も手っ取り早い方法は同じ土俵で戦おうとしないことだと思う。そもそも競ったり戦おうとしなければ、負けることも勝つこともなくひたすら平穏でいられるのだ。
 この世の中ではお金を手に入れるゲームが主流と言ってもいいくらい流行っている(?)。「俺は年収3000万円だぜ」とか言ってすごく自分が獲得したお金を誇る。でも、そもそもそのゲーム自体から降りてしまえばそんなものは痛くもかゆくもないのだ。と言いつつも何かそのゲームって魅惑的なんですよね。そのゲームで勝てばこの人生を好きなように生きられる度合いが増す。勝てばウハウハ生活が待っている~。
 という考えだったり空想が一人で静かに瞑想をしていると、どうでもいいような気がしてくる。もっと大事なことがあるんじゃないかという気がしてくる。最近、般若心経の本を読んでいるのだけれど、それを読んでいるとその人生勝ち組になるかどうかゲームというのがとてもつまらないものに思えてくるんだ。お金持ちになるかならないかゲームもつまらなく見えてくる。それって目に見えるものに完全に心を奪われていません? 目に見えるお金、地位、名声、物。そうしたものに心を持って行かれていて大切なことを見失っている。って生活するのにお金は必要だろ? 経済とか必要ないってことなのか? とおっしゃる方もいるとは思う。でも、目に見えるもの、つまり色(しき)に執着するのはかえって人を苦しくさせるんだ。いわば、そうした目に見えるものに必死でしがみついていて、それを手に入れることしか考えていなくて、それを第一にしているような生き方。それは貧しい生き方なんだ、とわたしは思う。
 何かに執着する。しがみつく。だから人は苦しくなる。それを手放したくないと必死になって抵抗する。でも、手放さなければならないと来れば、もうこれは必死も必死。必死にその(小学校にあった上り棒をイメージしてもらうと分かりやすい)何かにしがみつき、振り落とされないように全身全霊をかけてそれにしがみつく。まさに、これを手放したらもう終わりなんだとばかりに。でもね、最初からそこまでこだわないで「しがみつくのもうやめよう」と思って手放していれば、こんな大がかりで激しいしがみつき劇をやる必要はないんだ。「手放します。本当は手放したくないけれど手放します」と手放せばもう身軽、身軽。あんなに苦しかったのがもう忘れるくらいにスーっと引いている。あるいは最初からいろいろな物事に対してしがみつかなければ、こうした苦しさとは無縁でいられる。もちろん、こういう人を信念のない人とか意志の弱い人、心変わりをした軟弱者だとか言って揶揄することはできる。でも、人生にはそこまでしてしがみついていなければならないものなんてないと思う。それが苦しいのであればちゃんと無責任なことはしない上で(たとえば誰か他の人に自分の役割を交代してもらうとかして)手放せばいいと思うんだ。人間を含めたありとあらゆるものは変化している川の流れのようなものだから、そこには同じ水は流れていないんだ。まさに一期一会で、同じ状態というのは二度と訪れないし、過去においても今と同じ状態というのは断じてなかった。だから、変わっている自分の状況に応じて手放すというのはすごく合理的だし、的確な判断だと思う。
 そういうわけで最初から何かにしがみつかないという生き方に魅力をわたしは感じ始めた。もちろんわたしはクリスチャンだからイエスさまが救い主であって、神様がおられるという信念は揺らぎませんよ。でも、わたしが変わっていく中で、もしかしたらイエスさまを救い主と考えなくなるという可能性だってあるし、あれほど熱心に崇めていた神様の存在をも否定するようになるのかもしれない。でも、そうなってはいけない。何が何でもキリスト教的な人間でいなければならない。そうでなければ人間失格だ、とまでガチガチに思い詰めることだけはしたくないと思うようになった。もちろん、そうなればわたしはキリスト教徒としては失格だろう。でも、たとえクリスチャン失格になったとしてもわたしの人生は続いていくのだ。少なくとも死ぬまでは人生は終わらない。だから、そうなったらそうなったでいい。また、そうならなかったらならなかったでそれもまたいい、と柔軟に考えることができたらと願っているんだ。それが執着しない。こだわらない生き方なのだと思う。それこそが自由な生き方であって、縛られていない生き方だと言える。もちろんこういう考え方が気に入らない人は、ないとは思うけれど、キリスト教がこれから国家などによって迫害されるようになった時には迷わず殉教していただけたらと思う。自分がキリスト教徒であることにガチガチに執着してこだわりたいということであれば、殉教という立派な道が用意されている。あるいはキリスト教が認められていなくてクリスチャンだと分かり次第、命を狙われる国へと行って宣教活動なり何なりしていただければいいと思う。やわらかいしなやかな生き方と真逆の生き方と言ったらこんな感じになるだろう。
 要するにわたしは水のようにやわらかくしなやかに生きていきたいのだ。ガチガチの鉄などの金属のような生き方ではなくて、その場その場に合わせて臨機応変に、かつ柔軟に合わせて形を変えるしなやかな水のように。
 そもそも絶対にこうでなければならないと考えるから息が詰まるのだとわたしは思う。でも、自分の意見はしっかりとあって言うべき時にはしっかりと言える。ただ、それを相手に絶対的なものとして押しつけないような柔らかさ。そんな素敵な人になりたい。
 冒頭に戻ると、わたしの文章は求められていない。それは事実だ。でも、それが事実だとして、だからおかしいとか、皆がわたしの文章を読むべきだとしてしまうとどこか息が詰まってくる。いや、息が詰まるどころか怒りさえ沸いてくる。わたしの文章、多くの人に読まれたら、読んでもらえたらそれはそれで嬉しい。けれど、必ず絶対にそうでなければならないというのは柔らかいあり方とは言えない。こう考え始めると途端にネガティブな感情が消えていく。認知療法で言うところのすべき思考を自分と他者にあてはめるのをやめることと同じ事をしているこのヨガ的というか、仏教的なあり方は今もってして有効だ。
 水のようにしなやかに。目の前がかなり開けてきた。柔らかく、柔らかく、つまりは柔和に生きて行けたらと思う星なのです。



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