タイトルをご覧になられた方はまたどうせ大したことでもないのに、などとお察しのことだろうと思う。大したことない、のかもしれない。しかし、大したことだと思っているのがこの500なのだ。
500って何よ? 気になるから早く教えてくれ。そう焦りなさんな。500というのは、このブログの記事数が500記事を達成したのだ。パチパチパチパチ~。そこ、拍手する。見てないからって油断しちゃだめだからね。拍手~~。パチパチパチパチパチパチ~~~!!!
そういうわけでこの500記事記念の今回は今までのことを振り返りつつ、今後の行く末について少々考える、そんな機会にしたいと思う。で、ここまで500記事記念とか何とか言っちゃって恐縮なんだけれど、これが500記事目じゃないの。実は前回が記念すべき500記事だったんだけど、うっかり忘れてて普通に記事を書いてしまったんだ。ってオイ! オイ!! そういうわけで、この記事は501記事目。と何だか浮き足を引っ張られるような些細なことだけれど、まぁ500記事達成ということで明るく楽しく行こうじゃないですか(うまくごまかしたな)。
この500記事というのは、旧ブログ、つまりはjugemブログの「1ヨハ3:16」という以前のわたしのブログから新ブログ(今のこのブログ)になってからの500記事なんだ。だから全部合わせると700記事くらいにはなるかと思う。でもまぁ、旧ブログはそれはそれで味があるとして今のブログになってから早500記事。思い返せばいろんなことがあったなぁ。メモリアル回の今回、ということで過去の記事を含めた全500記事のタイトルを見返してみました。
初期のタイトルから受けた印象。それはすごく信仰に燃えていたんだなあってこと。今ではとてもではないけれど、昔のような信仰的なエッセイは書けないなぁ。教会が生活の中心にあって信仰の悩みとか考えたこととか、そういったことがとにかく書いてある。だから、わたしがまだ信仰篤かった頃の話でタイトルからその時の情熱とか真面目さが伝わってきてすごく懐かしかった。
その頃はまだ祖父母も健在で彼らともめたり、うまくいかなくなったり、そして、それから二人とも介護が必要になったり、病気になったり。入院した。施設に入った。治療をどうしよう、などといった高齢者につきまとう大きな問題にわたし自身直面してどうしようと悪戦苦闘していた。そんな時期だった。でも、今思うとそうしたお年寄りが老いていき死に近付いていくのを感じて、それと共に時を過ごすことができたというのは、経験としてすごく貴重なものだった。わたしもおそらくではなくて、確実にそういったことを通して成長できたように思う。特に祖母は血液の重い病気になって最期は白血病となり死んでいった。祖父も施設で1年半ほど暮らして、それからいろいろあって最期は衰弱して病院のお世話になって病院で死んでいった。医療、すなわち病院や介護施設にはお世話になった。その中でも介護士や看護師やドクターなどには言い尽くせないほどお世話になった。もちろん、そうした医療や介護従事者だけではなくて相談員の人にもお世話になったし、事務の人にも、とにもかくにもたくさんの人たちにお世話になった。感謝、感謝なのです、本当。
特に思い出深いのが、祖母と京都のお豆腐を食べたこと、長年確執のあった祖母と母が最期の最期で和解できたこと(悪態ばかりついていたあの祖母が「ありがとう」という言葉を残して天使のように清らかになって亡くなっていった)、祖父が祖母のことを愛していたことを感じることができたこと、祖父がわたしからの花の写真集の差し入れをそれはそれは喜んでくれたこと、死が近付いた祖父と交わした最後の会話と祖父の優しさにふれさせてもらえたこと。そのどれもがわたしのこのブログの中で文章として死なずに生き続けている。その時の感動だったり、思いだったりがまるで写真の思い出アルバムのように残っている。その当時に書いた文章を読み返すとあの時の何とも言えない感覚だったり思考だったり気持ちが甦る。もちろんそれは書いた本人だからこそのことであって、同じ感覚をその場を体験していない読者の皆様に感じてもらうことはそもそも、というかどう考えても限界があるし無理な話だ。でも、その片鱗というか、わずかながらもわたしの感じた思いだったり気持ちだったりは読みとれるんじゃないかと思う。そして、御自分の大切な思い出とリンクさせてそれが思い出されてつながったり、あるいは深まったりと気持ちの上でも何らかの感動(心の動き)はあるんじゃないかと思うし、そうあってほしい。
さらに最近の出来事では母が洗礼を受けた。その母と一緒に教会へ行けなくなってしまったのは申し訳ないけれど、それでもあの母が受洗したのだった。
星よ、お前はな~んにもしていないじゃないか。お前の人生、薄いよ。働いていないから感動とか達成感とか充実感といったものからほど遠くて毎日が同じことの繰り返しでまさに怠惰。倦怠感漂うマンネリだな。
って本当にそうなのだろうか。違うと思う。たしかにわたしは働いていないし、放送大学もやめて今は無職だ。でも、何もしていないわけではないし、何もなかったわけでもない。わたしの過去の記事を読んでもらえば分かる通り、わたしの人生もキラキラ輝いている。波瀾万丈なアップダウンの激しいまるで小説や映画やテレビドラマのようなそんなジェットコースターではない。けれど、それなりにアップダウンがあって、いろいろなことが起こり、何よりもわたしの中では思考がほとばしっている。ああでもない、こうでもない。いや、こうとも考えられるんじゃないか。これがいい。これが良くない。こうしたいんだ。これは嫌だ。などなど思考のほとばしりをわたしのブログからは感じていただけると思う。1記事2000文字と少なく見積もっても500記事ともなれば100万文字にもなる。この100万文字以上の思考、感情、出来事。これだけ豊かにあるのにマンネリだの同じことの繰り返しだのと言えるわけないでしょ。わたしは常に感じてきた。思考してきた。そこにはわたしなりの等身大の思想が常にあって、それと共に歩んできて、ことあるごとにそれをブログの記事として公開してきたんだ。
だから、このブログはわたしにとってかけがえのない宝物です。実を言うとアクセス数が少ないだなんだと言ってやめようと思ったこともあった。続けてもろくに読んでもらえてないんだからやめようって思った。でも、やめなくて良かった。というか、どんなにアクセス数が少なかろうが何だろうが、絶対に揺らがない確実なことはこのブログを通してわたし自身が成長してきたということだ。絶対にわたしが譲れないこと。それはブログを通してわたしの成長があったということ。急成長とまではいかないけれど、確実にブログの初期よりは今の方が成熟しているように思うんだ。文章もこなれてきているし、何よりも自分で言うのも何だけれど思考が深くなってきている。たしかに人は変わるもので信仰的ではなくなった。でも、その分、というか引っ込んだところもあった分、別のところが出てきたんじゃないか。
これからこのブログ、どういう風にしていこうかなぁ。そうだなぁ。こうしていきたいというのはないんだけれど、こうしていきたくないっていうのはある。それは完全な商業ブログにしてしまうこと。エッセイなんか書いても何も収益が得られないからとひたすら商品を売るためのような記事を書く。そういう風にだけはしたくない。今のところ、決まっている方向性はそれくらい。あとは風の吹くまま、気の向くままやっていけたらと思っている。
最後に読者の皆様へお願いを。このブログ、ぜひ拡散してください。Twitterなり、SNSなりでこの星さんのこの記事良かったよぉ、面白かったよぉって拡散してくださいまし。またブログなどやられている方がおりましたらご自由にリンクを貼ってください。あ、でも「つまらないから読んでみろ」みたいな拡散はやめてくださいね。肯定的な意味での拡散希望であります。
500記事を達成して501記事目の今回でありましたがどうかご贔屓に。皆様の人生にわたしの文章が何らかの関わりを持てたら嬉しいです。って欲張りすぎか。ま、少しでも面白いと思っていただけたら幸いです。
次の目標は1000記事? いやいや最初から大風呂敷広げてしまうと苦しくなってしまうので、ともかく1記事ずつ一歩一歩書いていく所存です。これからわたくし、星大地がどんな風になっていくのか。星さんワールドの今後に期待していてくださいませ。そして、ブログと共に歳を重ねていくわたしの様子ならびに変化や成長を暖かく見守っていただけたらと思います。
「500記事、やったぜ(ニヤリ)」。
それが言いたかったのね。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。