人間の専制国家で生きているわたし

いろいろエッセイ
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 あぁ、背中が痛い。30分でも座っていると背中が痛くなるの。イテテ、というほどでもないのだけれど、それでも重くなってきて次第に痛みのような不快感が出てくる。なぜだろう? 昨日ヨガをやらなかったからだろう。どうもここんところ、ヨガにも勉強にも今一つのめり込むことができていない星さんなのです。
 それもこれも背中が痛いせいだ。などと全部背中の痛みのせいにする。背中が痛くてどうも調子が出ないから、それだから集中できないんだ。そう言いたくなる。でも、自分自身今やっていることを冷静に見つめてみるとそんなにどうしてもやりたいってことでもないらしいんだ。って自分のことばっかり言ってる。まぁ、星のブログなんだから星の打ち明け話とか心情を聞いてくださいまし。
 今、わたしがやっていること。読書にヨガに瞑想、そして料理と執筆を時々。読書は動物の権利運動のバイブルとも名高いピーター・シンガー『動物の解放』を読んでる。でもね、今この本読むの2回目なんだけれど何だかきつくなってきてしまったんだ。じゃあ、やめれば? ごもっとも。でも、3回読むって決めたことだしなぁ、と自分で自分の首を絞めて自分で苦しくなってる。まぁ、自業自得ですな。で、この本なんだけど文体が固いんだ。で、翻訳なんだけれど一文が時々長くて長くてそれはそれは読みにくい。シンガー自身、世界的な哲学者だからどうしても文章は難しいようなんだ。わたしのペースで1ページ読むのにも早くて3分、かかって5分くらいかかる。そんなわけでこの本読むの、やめたいようなやめたくないような。そんな複雑な心境なのです。
 それから、それから。高校の教科書の『農業と環境』も目下取り組み中で読んでいるんだ。実はわたくし、環境問題にも興味がございますの。この地球を持続可能にしていくにはどうしたらいいんだろう、って個人的なテーマとして考えているんだ。とここで、どこからかこんなささやきが。
「人類が滅べばいいと思う」。
 がびーん。そ、それは言わないお約束でしょ。人類が滅びない上でさらに地球の環境を考える。それが鉄則というかお約束というか暗黙の了解なんですよ。そ、それを言っちゃだめよ、まったく。もー。
 でも、『動物の解放」を読んでいても高校の農業系の教科書を読んでいてもわたしは悟ってしまったのか、あるいは核心をついてしまったのか、やっぱり人間中心主義を貫こうとするがゆえにいろいろな問題が起こっているのだと思うのですよ。
 中学生くらいの子が大人にまるで刃物か何かのように突きつける鋭い問いは「何で牛や豚や鶏を殺していいのに人は殺してはいけないの?」といったものだろう。これに対して真正面から、というか死にもの狂いで答えるには人間には至上の最高の価値があるからだよ、と答えるしかない。それを『動物の解放』のシンガーはスピシーシズム(種差別)だと批判するわけだけれど、わたしもここのところを突っ込まれるとこの中学生に答えられない。牛や豚や鶏などの家畜よりも人間の方が価値があるって言うけれどそれってすべての人間じゃなくて価値がある人間だけだよね、とこの中学生は切り返してくる。そう返されるとわたしは答えに詰まる。現にこの日本には死刑制度だってある。そして、少ない数であるものの、死刑は執行されている。すべての人間の価値は等しい、と言うのはたやすい。でも、現実ではわたしの場合であっても、誰の場合であっても価値を等しく置いていないじゃないか。好きな人もいれば嫌いな人もいるし、大切な人もいればそうでもない人もいる。少なくともわたしは区別はしている(これを差別と呼べるのかどうかは分からないけれど)。
 そしてわたしたちの多くは自分の楽しみのために多くの家畜の命を奪っている。食べなくても生きていけるのに、それにもかかわらず動物たちを繁殖して育てて殺して食べている。この決定的な矛盾。小さな子が初めて自分が食べているこのお肉が動物たちの死体であり、殺したがゆえに食べることができると知った時の「それなら食べたくない」という純粋で無垢な透き通った反抗。それに対して「命をいただいているのだから感謝していただこう」と諭そうとする大人たち。でもこの子の直感は正しくて本質をついている。それに対して一番やさしい言葉は「じゃあお肉を食べるのやめようか」だとわたしは思う。肉を食べなくても人間は植物を食べさえすれば生きていける。じゃあ、何であえて動物の肉を食べるのだろう? ここまで切り返されたらもう答える言葉はない。強いて言うなら植物を食べることの是非などを指摘して、そこから肉を食べてもいいのではないかという方向に議論を誘導していくくらいだ。
 動物の置かれた環境を改善していこうとする運動もあるのだけれど、結局動物たちが人間が食べるために殺されるのだとしたら何だかその運動って欺いているとまでは言わないけれど、何か本質を突いていないような気がする。これを人間に置き換えて考えるとこうなる。2年間快適で何不自由ない暮らしをさせてもらえたらその期間が終わって殺されて食べられてもいいのですか、と。わたしは嫌だ。2年間なんて言わないで死ぬまで何不自由ない暮らしがしたいし、死因も他殺ではなくて老衰がいい。苦痛も何もなく天寿を全うして安らかに天国へと旅立ちたい。
 人間にとっては人間が一番かわいい。人間が一番大切で、一番価値があって、一番素晴らしい。これを否定しようとするとき「人でなし」とののしられる。スーパーでお肉コーナーの近くを通る時、やっぱりこの世界は人間の専制国家なのだなと思う。人間がありとあらゆる動物やら何やらを完全掌握していて、支配していて、頂点に君臨してのさばっている。それを否定するとしたらわたしは言うまでもなくお肉は食べられなくなるし(今、お肉は食べてませんけど)、この世を捨ててヴィーガンの王国(完全菜食主義の人しかいない国)へでも行って暮らすしかない。
 少なくとも環境問題にしても、動物愛護や動物の権利の問題にしても問題の根っこには人間中心主義がこの世界を覆い尽くしていることがある。まぁ、わたしが何を言っても焼け石に水だろう。こんな無名の閑古鳥が鳴くようなブログでどれだけ吠えてもほとんど現実は変わらないし、それに吠えるべき場所で吠えてもお肉を食べ続けたい人々から総ブーイングを浴びておしまいになるだけ。わたしにできることはこうしたささやかな記事を書くことと、菜食を続けてわずかであっても肉の消費量を減らすことに貢献し続けることくらい。
 とここまで偉そうに知ったようなことを書いてきたわけなんだけど、このシンガーの『動物の解放』、読むのきつくなってきたんだよなぁ。じゃあ、やめれば? それを言いなさんな。じゃあ、何て言ってほしいの? ぼちぼちやってね、とでも言ってほしいかな。ぼちぼちやってください。サンキュー。あ、腰がまた重くなってきた。背中に腰にといろいろ大変な星さんなのでした。

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