別にこれでいいんじゃないの

いろいろエッセイ
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『スロー・イズ・ビューティフル』を書いた辻信一さんつながりで彼が尊敬していた人物のサティシュ・クマールへとわたしの読書はまるでリレーか何かをするようにつながった。というわけで、『君あり、故に我あり』というクマールの本を読んでいる。
 まだこの本、全部は読んでいなくて途中なのだけれど、すごく深い精神性というか、とにかく深い。なんて凡庸な言葉でしか表現できないのが歯がゆくて仕方がない。
 ここまで読んできてわたし自身にあった変化を書きたい。それは、別にリッチな暮らしを求めていかなくてもいいんじゃないか、と思えたこと。誰しもが憧れるように思えるリッチでハイクラスな生活。広い家に住み、豪華な食事を摂り、好きなものを好き放題、好きなだけ買えるような生活。そうした生活がどうしてもしたいということであれば別に目指すのは自由。でも、それはそもそも環境にやさしくない。贅沢に暮らそうとすればするほど大量のCO2(二酸化炭素)を発生させる。大量に買って大量に消費するような、そんな生活。それが本当に幸せなのだろうか? というか、それってそもそも必要? 思うに必要最低限の暮らしができていればそれで良くないですか? わたしは言いたい。もう金持ちに煽られるのをやめようよ、と。そんなことしていても本当の幸せはおそらくやってはこないよ。
 なぜ広告はここまでしてわたしたちにリッチな生活への憧れをふくらませようするのか? それは商品を売る人が買う人に「今のあなたのままでは幸せになれませんよ。だから、幸せになりたければこれを買うといいですよ」と問題解決することをすすめたいからだ。まぁ、一言で言えば買ってほしいからだね。商品を売りたいからですね。その時に使われる文句はまるでそれを買わないと幸せになれないかのような、そんな危機感を煽りさえする。でも、それって本当に必要なんですか? 必要ないんじゃないですか? でも、商品を売る側がこれが本当に必要だったら買ってくださいなんて売ってるのなんて見たことない。それじゃあ、売れない。売れっこない。
 クマールの本で衝撃的だったのは、ある人たちは何も不足しているとは思っていないのに、それを勝手に「貧乏」というレッテルで一括りにして、その貧乏から脱するためにはこれが必要、あれが必要と商品を売りつけるのが常套手段なのだというようなこと。そもそも、未開人と呼ばれる人たちは何も未開ではないし、発展途上国と呼ばれる国で昔ながらの生活をしている人たちが総じて不幸かと言えばそんなことはないし(極貧で餓死寸前とかそういうレベルは除く)、彼らは彼らなりに楽しく幸せに暮らしているのだ。それをズカズカ先進国と呼ばれる国の人たちがやってきて、「あなたたちは貧しくてかわいそうだ。もっと豊かになれば幸せになれるのに」と自分たちの流儀を押しつけて彼らの素朴で質素なしかし幸福なささやかな暮らしを破壊する。人間って弱いもので視界に豪華で華美な生活がちらつくと、そっちの方がいいかもなって思わされてしまう。大豪邸で好き放題優雅に暮らしている(ように見える)人を見ればどうしてもうらやましくなってしまう。でも、わたしが思う一番の贅沢というか、一番幸せだと思うことって何かと言うと、いつもながらの手の込んだ愛情たっぷりの食事をいつものお家で大好きな家族と一緒に「おいしいね」って笑いながらほのぼのと食べることなんだ。何も贅沢することなんかじゃない。クマールの本を読んでいたらそんなことを思った。どれだけお金をかけた豪華なことをするかじゃなくて、どれだけ心のこもったことをするか。あたたかい気持ちがそこにあるかどうか。逆にどんなに豪華なものであっても、そこに心がこもってなかったらそれ以上に寂しいことってないよね。愛情とか親しみとかあたたかい心とかそういうものがあるかどうかが重要で、安いか高いかなんていうのはさほど問題ではないんだ。
 母が以前わたしにこんな話をしてくれたことがあった。それは高級なデパートでつまらなそうに面白くなさそうな顔でまるでストレスを解消するかのように大量に買い物をしている人がいたらしいんだ。その様子とは対照的にこんな光景も母は見かけたらしい。それはユニクロで1200円とか1500円くらいの服がバーゲンで安くなっていて800円くらいになっている。そうしたセール品を20代くらの女性が2つ手にとってとても嬉しそうに一緒に来ていたパートナーと思われる男性に「どっちがいいかな~♪」と聞いている。その様子はとても幸せそうで買い物をすごく楽しんでいて気分も盛り上がっているように見える。金額的に言ったらこの女性の買い物はたかだか1000円位にしかならない。でも、先のデパートでつまらなそうに大量に買っていた人よりもこのユニクロの楽しそうなお姉さんの方が幸せなんじゃないか。
 だから、高価な物が必ず人を幸せにするわけではない。そして、幸せにできるかどうかもたしかではない。言うまでもなく、少ない質素な物で満足できるのが一番幸せなんじゃないか。貪欲にどこまでも、どこまでも、よりハイクラスな高価なものを求めていくというのは何よりもその人の心が貧しいことを物語っていないだろうか。極端な話になるけれど、わたしは1000円の指輪を大切に大切にしてそれはそれは喜べる人と1000万円の指輪を「こんな安物」と吐き捨てるように言う人では断然前者の方が素敵な人だと思う。高い、高価な物でしか満足できない、さらには高価な物でも満足できないというのは心が荒んでいないだろうか。本当に心の美しい人というのはわずかなもので満足できる人。「こんな安物」などと言わずにただただ純粋にその物の値段ではなくて、そのものの良さを喜べる人。足るを知ることができるというのは素晴らしい能力だとわたしは思う。どこまで行っても満足できないというのはある意味病んでいる。
 そう考えると、今のわたしの生活も満更捨てたものではない。わたしは働いていないから障害年金の範囲内で生活しなければならないのだけれど、前向きに考えるのであれば生活を工夫できて楽しいとも言える。わたしも欲しいものはある。でも、それらを全部手に入れようとしていたらいくらお金があっても足りないし、ましてや今の経済状態では手に入れられるものは限られてくる。でも、だからこそいいんじゃないか。制限があって、贅沢三昧できないからこそ、その一つひとつの買った物が輝き出す。好き放題、まるで小銭でも放り込むかのように手当たり次第買っていたら全然嬉しくないだろうと思う。
 以前、テレビ番組であるボンボンがこんなことを言ってヒンシュクを買っていた。「DVDは借りないで買えばいいじゃん」って。言うまでもなくこのボンボンには1枚100円でDVDを借りる楽しさが分からないのだろう。この100円でDVDを楽しめる娯楽の尊さが分からないのだろう。本当は借りたいDVDはたくさんあるのだけれど、どれがいいかなぁと迷って絞り込む。選んで選んで選んで選ぶ。これが分からない。だから、ある意味「買えばいいじゃん」と言ってしまうのは、言えてしまうのは心が貧しいことを自ら露呈してしまっているのだ。100円のバナナが50円で買えたことを喜べるのも同じようなこと。
 わたしは恥ずかしながら一発当ててリッチになりたいものだと夢見ていた。でも、それは違うということにクマールの本を通して気付かされた。幸福とは外的なものももちろんあるけれど、それ以上に心の問題なんだ。どんなに何かで成功してお金がたくさんあっていい暮らしをしていても不幸な人はいる。もしかしたらかえって持つものを持ってしまったがゆに不自由になるのかもしれない。わたしが目指すべき方向性。それは足るを知る生活。贅沢なのかどうか、高価であるかどうか。そうしたことが基準ではなくて、心が豊かかどうか、今ここにおいて幸せを感じることができているかどうか。どんなにいい暮らしができてもそれで心が満たされなければ何にも意味がない。つまりは平安を得るという話へとつながっていく。華美で贅沢な暮らしが心の平安や安寧をもたらしてくれるかどうかと考えると、かえって富なり何なりを得たことによって執着が生まれてしまうらしい。仏典にはそう書いてあるし、それが事実なのだろう、おそらく。まぁ、どこまで手放すかというのは難しいところではある。だから、ちょうどいい手放し具合を模索していくことになるんだろうな。
 辻信一、サティシュ・クマールと来て、シューマッハー、マハトマ・ガンジー、マーチン・ルーサー・キングへと読書がつながっていきそうな予感がする。ま、ぼちぼち読んでいきたい。違う意味で目の前が開けてきたような気がする。面白くなってきたぞ。

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