数じゃない、質だ

いろいろエッセイ
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 今日、もう何ヶ月ぶりになるだろうか。Twitterをやった。本当に久しぶりのTwitterで、まぁ、気楽にやってみようと思ったわけだ。が、これが良くなかった。結論から先に言うとメンタルがガクっと落ちたのだ。せっかくそれまでいい感じだったのに、ガクっと落ちた。
 なぜだろう? 自分なりに考えてみる。視界に他の人のツイートが入ってきて、そのリツイートの数やらいいねの数が目に飛び込んでくる。そうすると自分のツイートの状況と比べてしまう。全然自分のツイートが人々からの注目を集めていない。ダメなんじゃないかとさえ思えてくる。
 考えてみるまでもなくそんなことはないのに。たとえわたしのツイートにいいねが1つも付かなかったとしても、わたしだけはこのツイートをいいと思っているし、そのことは揺らがない。でも、何かTwitterをやっているとそれでいいと思えなくなってくる。自分がみじめに思えてきて、自分がつまらなく思えてきてダメな人間のように思えてきて気持ちが塞ぐ。
 まるで何万、何十万といういいねが付いている誰かのツイートが高価な高価なダイヤモンドだとすると、わたしのは値段も何もつかないそこらへんの汚い石ころ。でもさ、考えてみるとそもそも石の価値に優劣なんてないんだよね。デパートとか宝石商とか、そういう人たちから見ればわたしのただの石ころなんて放り捨てるのさえ面倒くさいような代物だけれど、これをアゲハチョウが見たら両方とも「食べ物ではないな」で終わり。ただ2つの石がある。ただそれだけのこと。そこにとかく人間は優劣をつけたがる。比べてどっちの方が価値があるんだと白黒つけたがるのだ。
 いいねの数というのがまるでそのものの価値を表しているかのよう。そんなことはないのに。断じてそんなことはないのに。1万いいねというのは1万人の人がいいねを押しただけだとも言える。それだけ、それだけのことなのさ。って割り切れないのがSNSの魔力、なのだと思う。たくさんいいねが付けられるものがまるで最高の価値があるかのように思えてくるこの不思議。
 わたしは数ではなくて、そのものへの思いとか気持ちが大事ではないかと思う。
 今朝、わたしは近所の森の公園へ行った。雨が降る中、傘をさして行ったんだ。そして、公園の椅子に腰掛けていた。公園にいるのは、いたのはわたし一人。閑散としているとかそういうレベルを通り越して、わたし一人。わたし一人しかない。だから、公園を貸し切り状態で、一人でその公園の自然を独り占めしていたんだ。これってもし仮にこの公園にいいねを付けるとしたらその時間いたのはわたしだけなんだから、1いいねにしかならないよね。これこれの時間にこの場所をこれこれの人数の人がいいと思いました、ということではわたし一人のたった1いいね。でも、わたしはかえって思いを共有してくれる人がいなくて良かったと思っている。公園にわたし以外にもたくさんの人がいたらあれだけの静寂はなかっただろうし、わたしが公園の自然から感じることができたものも減ってしまっていただろうから。
 わたしが静寂と共に公園で過ごしたあの時間。あの時間はどんなたくさんのいいねで彩られたとしても全く意味がない。わたし一人だから、誰も思いを共有することがなくその時間を過ごせたがゆえの価値ある時間。まぁ、こうしてわたしがそのことについて記事をこうして書き、それにいいねが付くのだとしたら結局はいいねに回収されてしまう、と言えないこともない。でも、もうこうなると、こうした静寂で静かな時間を過ごせてしまうと、もういいねとか何だとか関係ないんだ。むしろ、わたしの言葉では表現できないようなあの静けさをその場にも居合わせていない人に気安くいいねしてもらいたくないとさえ思ってしまう。
 もちろん、いいねにも深いいいねと浅いいいねがあるのは事実で、わたしは深い共感とか理解によるいいね自体の価値というものはあると思う。でも、そのいいねは数字でしか表されなくて質は分からない。「すごくいい。最高。こんなにいいものなんてないよ」のいいねもあれば、「何となくいいから押しとこうか」みたいないいねもある。
 本当に自分が素晴らしい体験なり経験をしたりするとそれをシェアしたくなるのが人というもの。でもだからと言ってそれを「分かります、分かります」と言われても何だか嫌な気分になるし、ほいさ、ほいさといいね押し職人のようにほぼ自動的、反射的に軽い感じでいいねを押されても閉口してしまう。そういった理解ではなくて、深い共感的な理解をしてもらいたいんだ、人っていうのは。だから、質だと思うんだ。数じゃなくてね。
 と言いながらも人間、数が気にならないと言ったら嘘になる。やっぱり自分が何か発言したり行動したりした時に人々の反応がたくさんあった方が嬉しいのは言うまでもない。数じゃない、質だよとは頭では分かっていても本能的というか何というか数を求めてしまいがちだ。かく言うわたしも自分のブログのアクセス数は気になるし、Twitterの自分のツイートにいいねがいくつ付いているかということもやはり気になってしまう。
 でも、瞑想をしていて思うことはやっぱり数じゃなくて質だということ。自分の瞑想がいい瞑想だったかどうかというのは自分にしか分からないし、自分にしか判断できない。頭の中を見せるわけにはいかないし、考えていることを共有するなんていうことはできないからだ。だから、瞑想というのは他者からのいいねとは関係なくて、ただただ自分が手放して自由になっていくのをただ自分自身で見守っていくというプロセスでしかない。もちろん瞑想する上で先生についていたらいろいろと評価はもらえるだろう。「いい調子だ。その調子で深めていきなさい」とか「ここをもう少しこうした方がいい」とか。でも、瞑想は人々からの賞賛を得るためにするものではないし、そうした動機が入ってしまうのはかなり問題だ。言うまでもなく。
 誰もほめてくれなくても、いいねと評価してくれなくても、自分自身がとても充実していて幸福感を感じることができていれば、要するに自分自身からの絶大な1いいねがもらえればそれでいいとも言えるんじゃないか。
 あぁ、いい。本当にいい。素晴らしい。この上なく幸せだ。あぁ、満たされている。もうほかのものは要らない。今ここでこうしているのが素晴らしすぎる。生きていて、この瞬間まで生きてこれて良かった。
 そこまで思えたらもう人から何いいねもらおうが、もらえなかろうが、もうどうでもいい。自分が満たされている。それも完全に。自分が透き通っていてもう何も要らないくらいに幸せそのもの。そうなったらかえって他の人からのいいねなんて余計でうるさいものでしかないのかもしれない。「あぁ~、静かにしておいてくれ。うるさいよ」みたいなね。
 だからこそ、わたくし星はブログのアクセス数は毎日つぶさにチェックして、Twitterも頻繁にチェックしていいねの数を確認したいと思うのです。
 っておいコラ!! 全然今までの話を踏まえていないじゃないか。ぶち壊すなよ、ここまでのいい話を。
 踏まえていたらそうはならないよね~、てなわけで数ではなくて質。自分自身がどうなのか? 満足できているのかどうか? 幸福感が得られているのかどうか? そうしたことを基準にして数に振り回されないようにしてやっていきたいと思う星なのでありました。

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