世界は今、大変なことになっている。ご存知の通り、戦争が始まっているのだ。何とかしなければならない。が、わたしにできることなんて微々たるもので、ほとんど無力だ。わたしにできることは、「世界が平和になりますように」と祈ることと、あと、募金に協力することくらいだ。
そして、ここからがわたしは大切だと思うのだが、わたしが幸福を感じながら日々を暮らすこと。これが大事ではないかと思うのだ。星さん、それは不謹慎だよ。苦しんでいる人が大勢いるのに、幸せになってなんかいちゃだめだよ。暗い顔をして深刻に物思いにふけっているべきだよ。
いや、こういうご時世だからこそ、わたしたちは幸せを感じて当たり前の日々を大切にすべきなのだ。普段あんまり、「べき」という言葉を使わないわたしだけれど、わたしがそう思うので使わせてもらう。
じゃあ、逆に暗い顔をしていろ、とわたしにあなたが命じるとしたら、それってつまり一生暗澹たる思いでいるようにってことなの? わたしが20代前半にはまって中毒にまで陥っていた哲学者の中島義道は彼の著書の『不幸論』の中でたしかこんなことを言ってたな。この世界中で1人でも不幸な人がいる限り、幸福を感じたり、幸せになってはいけないのだ、と。つまり、不幸でいるべきだ、という主張なのだ。
でも考えてみれば、この主張には無理がある。なぜなら、この世は天国ではなくて、必ず誰か不幸な人が必ずいるからだ。1人も不幸な人がいない世の中なんてどだい無理な話だろう。世界に70億も人間がいれば、1秒ごとにたくさんの人が死ぬのは考えてみれば至極当然のことだ。世界中で1秒ごとに何人の人が死んでいるのか、わたしは知らないけれどその悲しい死があるのだから幸せになってはいけないとしたら、一生幸せを感じてはいけないことになってしまうよ。人生100年時代と言われている、その100年を誰か不幸な人たちのために捧げるなんて、それってどうなんだろう、とわたしは思ってしまう。
幸せになってはいけない。不幸な人がいるのだから。この考えの問題点は、たとえばわたしが幸せを感じないようにして不幸であろうと努めたとして、実際それにどれだけの効果があるのか怪しいというところにある。わたしが不幸な人たちのことを考えて気持ちを塞がせて、徹底的に絶望したところで意味があるのだろうか、ということだ。わたしがいわば精神の十字架に自ら進んでかけられて、それで世界中の不幸な人たちが一挙に幸福になるのであれば、それには意義もあるだろう。でも、わたしがどんなに悲惨な心持ちになったとしても、実際には何も変わらないのだ。ただ、70億いる人間のうちの1人が暗い不幸せな気持ちでいました、というだけのことでしかないのだ。わたしはキリストではない。わたしがどんなに不幸になっても誰も救われないのである。
そうするくらいだったら、何か自分にできることをした方がいい。たとえそれが山火事に滴を垂らす程度のことでしかなかったとしても、できることをした方がいい。その1滴の滴だって、10万、100万、1000万人と参加者が増えれば、大量の水になる。100円の募金だって人数が増えれば馬鹿にならないのだ。あるいは募金するだけのお金がない人であっても、祈ることはできる。神様にみんなでお祈りをするのだ。そうしたら神様はその祈りをかなえてくださる。きれいごとなのだろうか? み心にかなうならばきっとかなえてださる。そうわたしは信じている。少なくとも自分の精神状態を荒廃させるよりは断然祈る方がいいだろう。
なぜわたしがこういうご時世だからこそ、むしろ幸せになるべきだと訴えるのかと言えば、それが神様の願いでもあるからなのだ。神様はわたしたちに幸せになることを心から望んでおられる。決して不幸になることを望んではおられない。だから、わたしたちは幸せになる義務があるのだ。神様からの命令。それは「互いに愛し合いなさい」である。つまり、互いに愛し合って幸せになりなさい、ということではないだろうか。だから、心を沈ませて不幸に安住してはならない。そうではなくて、幸せになるのだ。また、互いに愛し合うからこそ、自分のできることをやらなければならない、とも言える。実際に現地へ行って活動することなどは難しい。でも、自分のできること、できそうなことを忠実にこなす。やっていく。これが大切なことだとわたしは思う。たとえ1人ができることが大規模な山火事に1滴の水を振りかけるくらいのことでしかなかったとしても、その1滴がなければ大量の水にはならないし、消火活動もできないのである。消火活動に使う大量の水も一滴の集合体なのだ。1滴がたくさん集まって鎮火にあたることができる。だから、その1滴には意味がある。
わたしは、早寝早起きの規則正しい生活をして、朝は入浴と散歩をし、少なくとも1日おきくらいには料理を作り、できる限り毎日を充実させて幸福感を高めようと努力している。コロナと戦争渦巻くご時世だからこそ、わたしは自分自身楽しく幸せに生きられたらと思っている。
暗い顔しないで。こういう時だからこそ、笑おう。(と言いつつもわたしはなかなかハッピースマイルができないのだが。はにかみ屋なんだな。)笑って毎日を楽しく過ごそう。そして、幸せに暮らしながら、困っている人たちのためにできることをやっていこう。みんなが笑顔になって幸せになったら、きっとそれが広がっていくよ。幸せになろう。生きていることの素晴らしさを賛美しよう。この世界をつくってくださった神様に感謝の言葉を捧げるんだ。わたしもあなたも幸せになるために生まれてきたんだよ。幸せになっていい。今幸せにならないでいつ幸せになるの? みんなで幸せになろうよ!!
神様、みんなが幸せな世の中にしてください。主イエスのみ名によって、アーメン。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。