それがどうしたんだい?

 ここに1本の木がある。大きな木だ。樹齢は何年くらいだろう。昔むかしからこの場所にいて、今日までいる。
 わたしが今日、朝散歩をしていて、ふと大きな木に目が止まった。と、はっとするものがあった。何にはっとしたかと言えば、わたしが小さなことにこだわっていることに気付かされたからだ。
 わたしは何者かになりたかった。今は低所得に甘んじているけれど、いずれはビッグになってやる。大物になってやるんだ、と意気込んでいた。とにかく、成功してやるんだと思っていた。そのためには成長して高みにまで到達しなければ。そのためには修行だ。毎日一生懸命頑張って夢をつかみ取ってやるんだ。そんなことを思っていた。
 と、そこにガツーンと脳天に喰らわされた。わたしが目指しているものって大したことなのかな。それなりに意義のあることなのだろうか、と。
 木を見て思った。この木はきっと少なくとも江戸時代にはもうここにいただろう。そして、人の世の移り変わりを見てきた。人間が生まれては死んでいった。次々に新しい人間が出てきたかと思えば、いなくなっていった。そんなこんなで数百年。この木は何を思っているのだろうか。この木から見たら、人間って一体何なのだろう。
 聖書にたしかこんな言葉があった。人間は草みたいなものだ、と。種から芽が出て、成長して花が咲く。けれど、それから長くは続かず花は散り、枯れてしまう。人間は儚いものだと聖書は言う。
 この聖書の言葉と今朝のわたしの経験は何やらわたしに本質的なことを教えてくれているようだ。
 仮にわたしが大作家になり、文壇の寵児となれたとしよう。印税でがっぽがっぽでいい暮らしができたとしよう。だが、それが一体何なのだろうか。それを誇ることは自由だ。誇りたいなら存分に誇ればいい。きっと周りの人たちは限りない賞賛を浴びせてくれることだろう。
 しかし、わたしが今朝目を留めたあの木は沈黙を通して作家として成功したわたしにこんなことを語りかけることだろう。「それがどうしたんだい?」と。
 有頂天のわたしは「俺はすごいんだ。最近出した本なんて30万部超えなんだぞ。それだけで家が建つくらいなんだぞ。」
 木は同じことをわたしにまた繰り返す。「それがどうしたんだい?」
「それがどうした?」と何度も繰り返されるとわたしはおそらく終わりの方では答えに窮してしまう。
 たしかに作家として成功することはすごいのかもしれない。多くの人間が達成することができないからだ。ほんの一握りの人間だけがつかみ取ることのできる栄光。それを手にしたのだからすごいのだろう。が、今朝の木はわたしにただ「それがどうしたんだい?」とまるで無限ループのように鋭い問いをし続けてくることだろう。
 わたしは長くても100年くらいまでしか生きられない。だから、あと数十年で死ぬのだ。人間は裸で生まれて裸で死んでいく。だから、どんなにお金を持っていようが、豪邸やタワーマンションを持っていようが、高級な外車をたくさん持っていようが、社会的地位が高かろうが、それは長くて100年の間だけの話であって、その期間が終わったら裸になって手放さなければならないのだ。
 だからこそ、「それがどうしたんだい?」というあの木の問いかけが凄まじい力を帯びてくるのである。人間はいずれは死ぬ。それも100%、いつかは死ぬ。
 もちろん自分はその生きている間にとにかくおいしい思いがしたいからお金をバリバリ稼いでいい暮らしをするんだ、と考えるのならそれはそれでわたしは否定するつもりはない。ただ、わたしが思うことは、そこまでガツガツしなくても死後にはしっかりと神様によって天国が用意されているのだから、刹那的にこの世に執着するような生き方をする必要はないということだ。どんなに生きている間ウハウハであっても、あるいは反対に苦しかったとしても天国があるのだから、それでいいんじゃないかというのがわたしの考えだ。(まぁ、ウハウハの人が死後に裁きを受けるのかどうかはわたしには分からないが。)
 あぁ、わたしの上昇志向がかき消されていく。でも、やりたいことはやっていけたらと思っている。生きている間にしかできないこの世的な楽しみや、自分の思考のほとばしりを文章にすることや、小説などの作品を作り上げること、ならびに興味のある本を読むことなどは引き続き継続してやっていきたい。わたしがやっていて楽しいと思うこと、好きなこと、充実感を感じることは積極的にやっていきたいのだ。
 しかし、この世的な成功とか名誉とかお金とかは手に入ったらでいいかなと思っている。ほどほどにあればいい。一番にならなくてもいいし、そもそもなる必要などはない。それにそれを第一にすることは偶像崇拝になっちゃうしね。神様第一が大切なんだな。(なかなかこれが難しいんだけど。)
 今朝、わたしが目を留めた木から本当に大切なことを教わったように思う。どんな成功を収めてもあの木の前ではそれがなんぼのもんなんだっていう気がしてくる。木の存在感というか、そこにいる説得力にはすごいものがある。何かで成功して、俺はすごいんだぞという思いがもたげてきたら、あの木の前に立ってまた木からの声を聴きたいと思う。
 って、いやいや、木からもいいけれど、神様からの声を聴いた方がいい。今朝の出来事は神様が木を通してわたしに語りかけてくださったんだな。きっとそうだ。
 神様、ありがとうございます。わたしはわたしでやりたいことをあなたに従いながらやっていきます。感謝、感謝です。

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