13週間聖書通読 12月18日の記録 マタ14~16章、創43~50章

いろいろエッセイ
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 さあ、今日も楽しく聖書を読んでいこう。聖書は宝の山。聖書は文字通り聖なる書物。読むことによってその人を変えていく力が聖書にはある。
 マタイの14章でショッキングな記事が早速登場してくる。あのヨルダン川で民衆に洗礼を授けていたヨハネ(洗礼者ヨハネ)が殺されたのだ。領主ヘロデが自分の兄弟の妻と結婚することをヨハネから咎められて彼を牢に入れていた。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたらしいが、人々はヨハネを預言者だと思っていたので民衆を恐れて手を下せないでいた。とそこへ殺すチャンスが訪れる。ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が踊りをおどってその娘にほうびを与えるとなった時に、ヘロディアが娘をそそのかして「ヨハネの首を盆にのせてください」と言わせたのだ。で、ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたにもかかわらず、彼を殺すことには心を痛めたようだった。が、客の手前、できないとも言えない。それで牢にいるヨハネの首をはねて持って来させることになった。

 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。(マタ14:10)

 何と簡潔な文章なのだろうか。わたしはこの明快な文章のリアルな様子を想像してみた。何て惨いことだろうか。わたしが勝手な想像をするには麻酔薬とかして意識をなくしてはいないのではないかと思う。つまり、意識がある状態で「今から王の命令により首をはねる」みたいな下役の言葉を受けて、青ざめているか、または殺されたくない、死ぬのは嫌だと抵抗して逃げようとしていたのか、ともかくスパっとはいかなかったのではないだろうか。押さえられたヨハネはきっとジタバタしたことだろう。この話はとても生々しくてわたしに強烈な衝撃を与えた。
 五千人に食べ物を与えられたイエスさま。どんな風になったらパンがそこまで増えるのだろうか。神秘だ。わたしがタイムマシーンに乗れるようになったらこの光景をぜひとも現実に見て体験したいものだ。イエスさまがパンをちぎられるとパンがむくって膨らんだのかな。それは分からない。でも確かなことは女と子供を除いて五千人もの人たちを満腹にするほどの量をイエスさまはお与えになったということだ。女と子供を入れたらさらに人数が増えるからもしかしたら合計で1万人くらいはいたのかもしれない。半端ないな、イエスさま。
 湖の上を歩かれたイエスさま。たしか「忍たま乱太郎」だったかな。忍者の卵の物語なのだけれど、それで水の上を歩くには右足が沈む前に左足を上げ、左足が沈む前に右足を上げるみたいなことをまことしやかに言っていたけれど(笑)、ここでのイエスさまはそんな忍術なんかではない、正真正銘、水の上を歩かれたのだ。それもバタバタ足を動かされるご様子もなく、それは優雅に水の上を、すなわち湖の上を歩かれたのだ。弟子たちはそのイエスさまを見て「幽霊だ」とおびえた。それもそうだ。夜が明ける頃とあるからまだあたりは暗くて湖の上を歩いてくるのは幽霊くらいしか考えられなかった。イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と弟子たちに声を掛けられる。人生においても逆風で波がざっぶーん、ざっぶーんな時もイエスさまが「安心しなさい。わたしだ」と声を掛けてくださる。だから、安心していい。恐れることもない。それでペトロがイエスさまのところへ水の上を歩いて行かせてくださいとお願いする。「来なさい」と言われるイエスさま。舟から降りてペトロは湖の上を歩き出す。と強い風に気がついて怖くなり沈みかける。「主よ、助けてください」とペトロ。イエスさまはすぐに手を伸ばしてペトロをつかまえる。そして、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われる。わたしはペトロと同じようなものだと思う。いや、ペトロのように湖の上を歩いてそちらに行かせてくださいなどと試みもしないことだろう。物理法則などをあてにしてきっと試みさえもしない。でも、イエスさまは物理法則をも支配して超えておられるお方なのだ。それがこの記事から分かる。

 口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。」(マタ15:11)

 つまり口に入る食べ物は人を汚さないけれども、口から出てくる、つまり心から出てくる汚れた思いこそが人を汚すのだとイエスさまは言われるのだ。だから、ファリサイ派の人々と律法学者たちが「なぜあなたの弟子は食事の前に手を洗わないのか?」と聞いてきたことは人を汚さないのだから、彼らの疑問は本質をついていないのだ。人間の邪悪な思いなしこそ人を汚すというのはもっともだなと思った。でも、今はコロナ禍なので人を汚さなくても手は洗います(失言?)。
 そして、ティルスとシドンの地方に行かれたイエスさまは、そこでカナンの女に出会う。イエスさまに彼女は娘が悪霊に苦しめられているから助けてほしいと願う。とここでイエスさまは意外な了見の狭いようなことを言われる。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)。そんなぁ、イエスさま。それはないでしょう。カナンの女だろうが何だろうが困っている人がいたら助けてくださるのがイエスさまじゃなかったの? とりあえずこのことはここで議論してもらちが明かないので保留するとして、もだ。さらにイエスさまはカナンの女にさらに辛辣な言葉を吐かれる。「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」(マタ15:26)。子供たちとはつまりイスラエルの民のことで、子犬とはカナンの女などの異邦人のことなのだ。カナンの女とその娘を子犬扱い。辛辣イエスさま。本当どうしちゃったのかっていうくらいここでのイエスさまは冷たいよ。が、その冷たい言葉にカナンの女は食い下がってこう言う。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(マタ15:27)すごいキレキレな切り返し。冴えすぎててこわいくらいな返答。これにはイエスさまも「あなたの信仰は立派だ。」とカナンの女をほめられた。「あなたの願い通りになるように。」とのイエスさまの言葉通り女の娘もいやされて良かった、良かったなのだった。カナンの女の諦めない、食らいつく、食い下がるという姿勢には目をみはるものがあった。これが「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタ7:8)ということなんだろうなって思う。すぐあきらめないで粘ることが大切だってことだね。

 さて、旧約聖書の創世記に移ろう。ついに、というか創世記も今日でお終いなのだ。まだ5日目なのに創世記終了。13週で1回聖書を通読するペースってすごいね。読むのもまぁそりゃあ大変だけど旧約を1日15ページだから1時間も読めばその日の分は終わる。ま、ぼちぼちやっていこうではないか。
 ヤコブのところの飢饉はひどくなる一方で食糧が厳しくなってきた。食糧があるエジプトへ行き穀物を手に入れたい。しかし、ヨセフから兄たちに末の弟(ベニヤミン)を連れてくるように言い渡されたので、次にエジプトへ行くときにはベニヤミンをも連れて行く必要がある。そうしなければ人質となったシメオンを見捨てることになるし、いずれ穀物は尽きてしまうのだから考えていても問題は解決しない。これはベニヤミンを連れてエジプトへ行くしかない。この事態に覚悟を決めたヤコブは息子たちにベニヤミンとその安全を託すことにしたのだった。
 エジプトに到着した一行。ヨセフの前に進み出ると、ヨセフは同じ母の子であるベニヤミンも一緒なのを見て、自分の屋敷へと彼らを連れて行った。兄たちと弟はビビった。これは自分たちを連れ込んでひどい目にあわせるつもりではないのか。きっと奴隷にされてしまうんだ。
 が、予想とは反して昼の食事が始まる。ヨセフが一行を招待した食事である。とここで、一行は年齢順に座らされた。これもびびるよ。何で分かるんだってね。もちろん同じラケルから生まれた者同士であってヨセフが大好きな弟のベニヤミンの食事の量は他の人よりも5倍ほど多かった。そんなこんなでぶどう酒も飲み楽しい酒宴が催され一行は楽しい思いをしたのだった。
 で、兄たちと弟の一行は目的を果たし、シメオンも解放されてやることが終わったので帰ることになった。けれど、ベニヤミンをつなぎ止めておきたいヨセフは自分の銀の杯をベニヤミンの袋の口に執事に命じて入れておくようにさせたのだった。それで執事に杯を入れさせて、少し時間が経ってから追いかけさせた。一行が銀の杯を盗んだのではないかということなのだ。ヨセフのやらせ感、半端ないなぁ。自作自演ってやつですか。自分で杯を入れといて、で盗んだだろ。なかなか手が込んでいる。もちろん、彼らの、ベニヤミンの袋の中から銀の杯は見つかる。まぁ、当然だわな。このままではベニヤミンが奴隷にさせられてしまう。ここでユダが「自分がベニヤミンの代わりに奴隷になる」と残してきたヤコブとの固い約束を思い起こしてヨセフに進言する。
 兄たちと弟が窮地に陥ったところで、ヨセフは彼らに自分の身を明かす。

 兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。(創45:3)

 そりゃそうだ。これは驚くでしょ。驚くなんてもんじゃない。驚愕の事実の前にただ呆然としてもおかしくない。
 ヨセフは自分がエジプトに売られたのも神のご計画だったということを兄弟たちに言う。神様って深い深い思いなしをお持ちなのだなぁとしみじみとした思いにさせられる。
 そしてヨセフは兄弟たちにヤコブとその一族ともどもエジプトへ移住するように言う。あとはヤコブ(イスラエル)一族を連れてエジプトへGoなわけだ。
 ヨセフが生きていてさらにエジプトを治める者になっているという事実はヤコブに元気を取り戻させた。気が遠くなるほどにヤコブは嬉しかったようだ。最初それを聞いたときには夢かまことか見分けがつかなくて、いわゆるほっぺをつねってみるみたいな(ヤコブはやらなかったと思うけど)それくらいの衝撃がある喜びだったんじゃないかと思う。神様もそんなヤコブに声を掛けられる。「エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。」(創46:3)と神様もお墨付きのエジプトへの移住なのだ。
 そして、ヨセフとヤコブはゴシェンの地で感動の再会を果たす。この再会はヤコブに「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(創46:30)と言わしめるほどのものだった。ヨセフもヤコブももう一度会えるとは思っていなかったんじゃないかな。それが再会できて本当にこれは感無量。筆舌に尽くしがたいとはこのことだ。
 ヤコブはエジプトの地で17年生きた。先祖の墓に自分を葬ってほしいとの遺言を残して体がどんどん弱って死に近づいていく。
 ヤコブは死ぬ前の仕事とでも言うべきなのだろうか。ヨセフの二人の息子(マナセとエフライム)を祝福し、さらに息子たちをも一人ずつ祝福したのだった。
 そうしてヤコブはこの世を去った。とても安らかな死に方ではなかっただろうか。もうこの上ない幸福感に包まれながら安らかに死んでいったのではないだろうか。そしてカナン地方にあるアブラハム、サラ、イサク、リベカ、レアが葬られている墓に自分も葬ってほしいと息子たちに命じる。もう思い残すことはない。安らかにヤコブは息を引き取ったのだった。
 ヤコブの葬儀は非常に荘厳だったらしい。ヤコブが死んだことでエジプト人が70日喪に服したとのことだから、国家的な規模でヤコブの死を悼んだのだ。そして、ファラオの宮廷の重臣たちとエジプトの国の長老たちすべて、つまりはエジプトのおもな人はすべて。ならびにヤコブ一族がみなカナン地方へと羊や牛は残してヤコブを葬るために上っていったのだった。
 ヤコブを葬ることができたヤコブの息子たちの一族はエジプトへ帰還する。と父ヤコブが死んだことによって、ヨセフの兄たちの心のしこりのようなものが疼き始める。ヨセフはまだ自分たちを恨んでいてこの機会に仕返しをしてくるのではないか、と思えてきたのだ。で、人をやってヨセフに父ヤコブが「赦してやってほしい」と言っていた旨を取り上げながら、赦してほしいと兄たちは言うのだった。ヨセフは涙を流す。やっとここに来て本当の意味での兄弟の間の和解が実現したのだった。ヨセフは答える。兄たちの悪をも神は善に変えて多くの民の命を救うようにしてくださったのだ、と。そして、ヨセフは「このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」と優しく兄たちに語りかけるのだった。いい話だ。本当にいい話だ。神様によって大団円を迎える。そして、ついにヨセフも齢を重ねていって死ぬ。ヨセフは「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。」(創50:25)という素晴らしい言葉を残して旅立っていく。神様はイスラエルの民を先祖のアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださるとも言い残して。
 こうして創世記が終了。いやはや、長いようだったけれどあっという間だった。何か主要な登場人物全員が神様を心から信頼して任せて委ねている様が印象的だった。信仰とは具体的にどのようなものなのか、という良い模範を見ることができたように思うのだ。神様が世界を統べ治められていてそのもとで人間は生きている。こうした「素朴な」と言うと語弊があるが真摯な信仰に教えられることが多かった。苦難にあっても神を捨てない。神を忘れないでいつもどんな状況にあっても神の方向を向くようにする。言うのは簡単だけれど行うのは至難の業だ。でも、その方向性というかあり方はつかめたように思うので実践あるのみ、という心境でいる。創世記を最初から読んでみて得るところが大きかったように思う。聖書は創世記の天地創造から始まる。そして、族長物語を経てヨセフ物語へと移っていき大団円を迎える。感動した。創世記、特に最後のあたりもう本当に感動した。とても良かった。これがひとえに聖なる書物である聖書の聖性なのだろう。深い深い真理を示して教えてくれる。創世記、読んで良かった。
 さて、次は出エジプト記。エジプトに寄留しているヤコブの子孫であるイスラエルの民はこれからどうなるのか。先が気になる。あらすじとか概要はもちろん知っているけれど、知っていても楽しみ。出エジプト記もこうご期待!!

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