余命一ヶ月の祖母と星さんのカレー

いろいろエッセイ
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 ついに一ヶ月が経ってしまった。月日が流れるのは本当に早いものだ。
 一ヶ月。この時間は何を意味するものなのか。おそらくこれだけ聞いてもよくわからないことだろう。というより、わたしの個人的なことなのである。
 この一ヶ月、本当にあっという間だった。で、一ヶ月って何なのさ?
 祖母が医者から宣告された余命である。ひと月前の8月のはじめ、祖母は医者からあと一ヶ月しかもたないでしょう、と言われたのだった。一ヶ月以内に死ぬだろう。医者の予言はありがたいことに外れた。が、もうじきその宣告が現実のものとなるのだろうか。わたしは予言者ではないから未来のことは分からない。祖母がいつ死ぬのか、ということについては何とも言えないのである。
 医者の余命一ヶ月という重い重い祖母への宣告。そしてそれは同時に家族としてのわたしたちに鋭い厳しさをも突きつけてくる。
 余命一ヶ月と言われてからわたしが祖母にしたこと。それはまず、京都のおいしいお豆腐を取り寄せたこと。それから、カレーを作ってあげたこと。それくらいだ。あと強いて言うなら、ちょっぴりわたしは祖母に対して優しくなったのかもしれない。
 余命一ヶ月というのはなかなかインパクトがありますよ。てなわけで常に祖母の死と隣り合わせになりながらの毎日である。いつ死んでもおかしくない。切迫はしていないけれど、終わりを予感しつつある。そんな空気が家の中を流れているのである。
 一方、祖父は施設に入所していて、今はそこで不自由なく暮らせているようだ。入所しているところが老人保健施設ということで、入所料はなかなか高いけれど、その費用は祖父自身の年金でギリギリ賄えているような状態なのである。
 祖父が施設に入所する前には、祖母が祖父の介護と家事全般をこなしていた。とてもしんどそうだった。よく祖母がネチネチ愚痴をこぼしていた日々を今となっては遠い過去のように思い出す。
 その祖父が施設に入所していなくなってからというもの、洗濯物などは洗って施設へ持って行くのだがそれ以外は祖父のことをやらなくてもよくなったので、祖母はとても楽そうになった。が、祖父の面倒を見なくてもよくなったことと、家事もほとんどしなくなったことから、認知機能が低下してきてしまい、今では込み入った話を覚えていることができなくなってしまったのである。そして、軽度の難聴。この難聴と認知機能の低下が合わさるとなかなか意志疎通をとることが難しくなってくる。大きな声ではっきりと簡単な言葉でわかりやすく話さなければ話が通じないのだから、時々わたしと母は面倒くさくなってしまう時がある。でも、めげずにやっているのだが。
 さて、これから祖母はどれくらい生きるのだろうか。生きてくれるのだろうか。それは冒頭にも書いたとおり、わたしには分からない。でも、なるようになる。何とかなっていって丸く収まっていくものさ。楽観的なわたしはそう考える。何とかなる。何とかなっていく。そう自分に言い聞かせる。
 カレーを作って祖母に食べさせてあげると、「おいしい、おいしい。」と言って本当に喜んでくれる。何せ、わたしのカレーはスパイスから作ってますから味が違うのですよ。趣味のカレー作りが意外なところで役立っているのだから、何がどんな時に役に立つのかはわからないものだと思う。
 確実に食欲が落ちてきていて食事量自体も減ってきている祖母だが、カレーだったら結構食べることができるようだ。ということはわたしのカレーが医者の余命一ヶ月の予言を外れさせたということなのだろうか。
 カレー作るべし。1日おきくらいには作るべし。てなことを今思った星である。
 カレーに入っている各種スパイス、にんにく、しょうが、玉ねぎ、トマトなどが祖母の生命力を高めているのかもしれない。そして、命を長らえさせているのかもしれない。食欲がない時でもスパイスなどの香辛料が効いた食べ物は案外食べられるものだ。星さん、何ておばあちゃん孝行なんでしょう。自分で言っちゃうよ。はしたない星である。
 最近、コリアンダー1kgを買ったくらいだから、カレー作る気、満々である。
 祖母に残された時間は少ない。その限られた時間を共に大切に過ごせていけたらと思う。星さん特製のカレーも食べながら、ね。

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