あれがほしい。これがほしい。もっとこれがあったら、これをやったらきっと幸せになれるんじゃないか。そう思って手当たり次第に手を出して、結局どれも中途半端でほとんどのものがやらずじまいだったり、ゴミ箱行き、なんて経験はないだろうか。かく言うわたしも昔はそうだった。が、今それから完全に脱しているわけでもない。ただ、方向としてそんな感じになってきたわたしがいる、というだけの話。けれど、欲望がすごく集中されてきたようには感じる。やりたいこと、力を入れたいことがハッキリとしてきたというか。
今、周りを見回すと全盛期と比べてかなり減ったものの、本がある。見ると結構いい本を持っているではないかということに気付く。そうしていろいろ我が家を見回してみると、それなりにいい物を持っているのだ。でも、昔はそのことが見えていなかった。ただただ、今はまだ手にしていないものに憧れて渇望して、それらを手に入れようと必死だった。だからいつも欲求不満で満足していなくて、もっともっとだった。わたしの場合は次から次に本を買っているような有り様だった(少しでも安くしようと多くは中古本だったけれど)。
それがヨガをやり、ミニマリズムを知り、手放すことを覚えてそれを生活で実践するようになったら、何だか急に物欲が減った。知識欲も減った。何かを、それもまだ知らないこととか持っていない物などへの渇望がなくなってきた。今も捨てたものではなくてまぁいいんじゃないの? 今持っている物も身の回りの環境もまぁそこそこいいんじゃないですか? という感じに思えるようになってきた。と言いつつも全く新しいものを求めなくなったわけではなくて、今もちょこちょこは本だって買うし、ネットでお買物だってする。でも、その買い方がすごく慎ましやかになったというか、上品になった。
ミニマリズムのごとく、わたしに強調する部分がしっかりと出来てきた。わたしは週3で街にあるヨガの道場へ練習しに行きたい。だから、それ以外のあまり重要ではない物事は削ってその強調したい部分に時間やお金や労力を集中させる。それからお料理にも力を入れたい。だから、ヨガと同じようにお料理にもエネルギーを投入する。
もしかしたらこれこそが幸せな状態なのではないかという気がする。やりたいことに、それも大切なことに自分の持っているいろいろなエネルギーを集中することができている状態なのだからまさに本望なのだ。反対にやりたくないことやどうでもいいことのために自分のエネルギーを傾けている状態というのは不本意だと言える。生きていくためにやらなければならないことはやる必要があるけれど、それ以外のやりたくないことなんていうのはやらなくてもいいんじゃないか。人間、やりたいことをやれていて、大切にしたいものを大切にできている時が一番活き活きとして輝いているはずなのだから。
それからミニマリズムに加えてヨガ的な生き方もある意味、力みがないというか肩に力が入っていない感じでそれが心地よさを生み出しているのではないかとも思う。執着、つまりは物事へのガチガチのこだわりをなくして手放していくのがヨガだから効果は覿面なのだ。ヨガのお師匠さんと話をすると全然力みがなくて無駄な力が入っていない。それがとても心地良くてその先生と話をしている時というのはこちらまでもリラックスさせてもらえる。そして、そのいいこだわりのない空気がわたしに伝染してそれが家へと持ち帰られてさらに母へと、果ては猫のルルへとも広がっていく。そのあり方は、自分自身を実物以上によく見せようとしていないのはもちろんのこと、しなやかで無理をしていない。師匠、勉強させてもらっております。
自分にないものとか持っていないものってとかく魅力的に見えるもの。でも、そればかりをまるで塩水を飲むかのように求め続けていたらどこまで飲んでも満たされることはない。それはとても不幸なことだと思う。そうではなくて、今あるものに目を向ける。そして、その自分にあるものや持っているものを大切にして愛する。で、どこまでも大切にしてもういいかなと思ったら手放すようにする。そう、この行き方であれば、大量生産の大量消費の使い捨てといったあり方ではなくなる。そうではなくて少量生産の少量消費でその少ない物を大切にするというあり方になる。それはとても幸せなことではないかと思うんだけれどどう思います? 手当たり次第ほしいと思ったものを次々に手に入れてはそのほとんどがゴミ箱行きというのはどうも寂しい。でも、こういう意見があまり幅を利かせないのはやっぱり日本が無限成長社会を目指していて、そのためには多くの新しい物をどんどん作ってそれが売れてという流れが必要だからなんだけれど。永久的に使える蛍光灯とか永久使用できる型が古くならないパソコンとかスマホなんかではダメなわけです。壊れたり、次々に新しいモデルチェンジがないと企業は儲からないわけですから。
物に限らず知識とか勉強だってそう。新しいまだ知らないことを追い求めていくのはとても刺激的で楽しいものだけれど、そういうあり方ではなくて今自分がいいなと思っている知識を何度も何度も確認するかのように繰り返して勉強するということだっていいと思う。ひたすら同じテキストを反復するとかね。これはアシュタンガヨガのような勉強の仕方で、同じことをひたすら何度も何度も繰り返していくわけです。もうアシュタンガヨガって決められたポーズを決められた順番で毎日毎日同じようにやる練習をしていくわけだから、もうどのポーズもお馴染みそのもの。でも、そのお馴染みのまさに定番のポーズをひたすら繰り返すことによって、ヨガが深まっていく。次から次に新しいポーズをその日、その日で順番もメチャクチャにやってという感じではなくて、同じポーズを毎日同じ順番で同じように繰り返す。それこそが遠回りのようで一番の近道なのだ。ヨガに限らずあらゆること全般において言えるこれは鉄則だろう。
知識も物も繰り返し使えば使うほどその人にとってしっくりとくる。今あるものをじっくりと味わう。そんな風にやっていけたらいいなぁって思っている。でも、新しいお料理にはどんどんチャレンジしていきたいですけどね。って全然今までの話を踏まえてない(笑)。まぁ、これはこれ、あれはあれ。と支離滅裂になり始めたところで失礼いたしましょう。ともかく知識は反復して繰り返す。物だったら大切に使うことに勝るものはない。これだけは言える。ま、当たり前と言えば当たり前のことだけどね。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。