欲望にまみれたこの世界で

ヨガ
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 ヨガ哲学の本を読んでいたら何だか不思議な気持ちになってきた。文章を読んでいると、著者が高い境地にいるからなのだろうか。自然と心が静まって落ち着いてくるのだ。
 この物欲にまみれた煩悩の時代であればあるからこそ、かえってヨガが光り輝いてくる。物質主義的に欲しいものを手に入れて、きらびやかな成功のサクセスロードを歩んでということとは真逆の道を行こうとするヨガ。その教えは貴重でありとても尊い。
 手放すことで見えてくる世界。心を整えて静かにしてきれいにすることで見えてくるもの。そのためにヨガはやるものであって、美容とか健康とかそういうためにやるものではない。もちろん、美しく健康にはなる。でも、それが王道ではない。目指すべきは悟り、つまり解脱。
 わたしが思うに、悟っている状態というのは、心にこだわりも邪念もなくて澄み切っていてそれはそれは穏やかな境地なのだろう。本を読んでいたら何だかそれがいいなぁという気がしてきた。わたしの最近の記事では、世界のいろんなお料理を作れるようになるんだ、と鼻息を荒くしていたものの、それを捨てるとまではいかなくても、それ以上に穏やかな境地もいいかもなぁという気持ちになってきている。
 わたしのヨガの課題。そして、それこそが人生の最も大きな難しい課題でもある。それは欲望とどう関わるかということ。
 わたしの欲望。美食、性欲、尊敬や賞賛への憧れ、経済的に豊かな暮らし、つまりはお金。そんなところだろうか。わたしの欲望って。以外とたかが知れているなぁと思えなくもない。でも、これこそが曲者(くせもの)なのだ。ついつい気が付くと針が極端な方向へとふれてしまう。美食ともなればマックスまで追求してしまうし、性欲だってハメを外してしまえばどうなることか分からないし、尊敬や賞賛などに凝り始めたり、もっといい暮らしがしたいんだなどと高望みをし始めればきりがない。
 これらの欲望は人間の心の目を確実に曇らせる。それだけは事実だと言うことができる。本当に澄んだ美しいまるでお釈迦様のような人がそういったことに執着している姿を想像しようにも、そんな聖者はどこにもいない。みんな聖者は心が澄んでいる。今ではもうほぼ絶滅してしまったかのような存在で滅多にいないけれど、そんなあり方にわたしは憧れ始めた。でも、じゃあ家を捨てて、家族を捨てて、何もかも捨てて、「心をきれいにするんだ」と山奥や洞窟の中で暮らすかと言えば、とてもそんなことをやる勇気はない。今の暮らしを続けたい。でも、心を静かにしてきれいにしたい。って、そんなのワガママ。何かを手に入れるには何かを捨てなければならないのが鉄則だとすれば、その静寂を手に入れるためにはそれを乱すものを手放さなければならない。
 そう考えていくと、極端な路線となればもう現世での現代的な暮らしなんていうのはどうでもよくなってしまうのかもしれない。それよりも修行をして平安を目指すということになるだろう。
 うむ、やっぱり今のままではダメなのかな? 無理なのかな? 便利な生活を送りながら静かな境地を手に入れたいだ何だというのは。
 でも、最近、結構ヨガをやるとすごく静かな感じになれる時があって、もしかしたら悟りを瞬間的に経験しているのかもなと思う時がある。おいしい料理をちびっとなめたみたいな、そんな感じの静かな心地。わたしの曾祖父、つまりはひいおじいさんは蒸気機関車を見ている時に悟ったらしい、という話を聞いたことがあるのだけれど、このわたしのプチ瞬間的な体験は悟りなのかしら? 何ていうか目の前の景色が急に色鮮やかに鮮明になったんだ。光り輝いているというのとも少し違うのだけれど、それでも何か荘厳な後光が射しているかのような、そんな感じがしたんだ。そして、目の前の人たちが急に素晴らしく見えてきて、ありふれた景色のあまりの美しさに泣きそうになった。そんな感覚がヨガの道場の帰りの電車の中であったりして、すごくスピリチュアルな体験だった。
 こういった体験が神秘体験であり、悟りを垣間見ているのかどうかというのは自分で判断するしかない。もちろん、過去の偉大な聖者たちの言葉だったりが参考にはなるのだけれど、それも含めて自分で判断するしかないように思う。まぁ、すごく高い境地にいる先生に質問するというのもありかもしれない。でも、その先生が本当に悟っているのかどうかというのは最終的にはこのわたしが判断するんだ。人に質問をする。人に尋ねる。もちろん、こういったこともすごく大事なことではある。でも、最後には答えは自分の内側にある。外側ではなく内側に。あるいは外側に求めるのだとしたら神様に求めるという方法もあるかもしれない。しかし、最近のわたしは自分の内側に神様がいてその声を聞けばいいのではないかという風に思うようになってきたから外側に求めようとは思わない。
 と書いてきたけれど、結局は自分が欲望とどう向き合うかというただそれだけのことなのだと思う。欲望を手放さずに曇った心でい続けるのか、それとも手放して透き通らせるのか。透明にするのだとしたらどの程度まで透明にしようとするのか。すべてはわたし自身の選択と決断に委ねられている。
 そうなってくるとブログのアクセスランキングとか、このブログ自体のアクセス数とかもうどうでもいいというか、要らないなっていう気がしてくる(日本ブログ村経由のアクセスもほとんどないことだし)。だから、とりあえずブログは自分の自己成長と気付きをはっきりさせるためとその得たものを皆さんとシェアするために続けたいと思います。何かアクセス数を見て一喜一憂しているのがどうかなぁという気もしてきましたので。
 なけなしの承認をかき集める生き方ではなくて、それとは距離を置いた静かなあり方を目指したい。もしかしたら出家とかしなくてもある程度のところまでは到達できるのではないかという希望を持ちつつ、ぼちぼちやっていく次第。心がきれいになり、透き通ると一体どんな景色が待っているのだろう。名誉でも名声でも賞賛でもお金でも物でもなく、つまり欲望ではなくそれから自由でいること。そうなれたらいいなぁ。ってそれすらも欲望ではあるんだけどね。ぐらぐら、ぐらぐら揺れておりますな(自分でも言うことがコロコロ変わっていると思う)。でも、それだからこそ面白いんだよなぁ。

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