目が覚めた。今まで眠っていたかのようだ。ふと、「何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな」という聖書の言葉が頭に思い浮かんだ。
わたしは思い悩んでいた。何を食べて何を飲むかということに。少しでも健康で長生きするためにはどうしたらいいのだろう、とひたすら考えていた。でも、どうやらそれは本質のように見えて本質ではなかったらしい。
医学というものも結局は快適に生きるための術でしかない。快適に長く生きたい。苦痛を覚えたくない。そのためのいわばハウツーなのだ。しかし、それは本質ではない。本質は快適に生きることではなくて、いかに生きるかということ。わたしは健康であるためにはどうしたらいいのか、ということに多くの時間を費やしてしまうところだった。
たしかに快適さ、心地良さには捨て難いものがある。みんな苦痛なく病気になることもなくこの人生を生きていきたい、と思う。でも、そのためにわたしの人生があるのかと言えばそんなことはないし、実際そうとはわたしには到底思えない。
人は死ぬ時には死ぬ。そして、どんなに頑張っても不老不死にはなれない。体は歳を重ねれば朽ちていくし、この現在の肉体は永遠のものでもない。朽ちていく。錆び付いていき遅かれ早かれ、この肉体を捨てて魂として旅立っていかなければならない。
二人の人がいたとして、病死した人と生涯病気をすることもなく死んでいった人とではどちらがいいかと言えば、普通は後の人だろうと思うけれど、そのどちらが幸せでどちらが不幸だったかというのは答えが出ない。それに答えを出したところで、それは結局、その判定者というか見る人の視点でしかないのであまり意味がない。わたしは有り難いことに、あまり病気らしい重い病気をしたことがないからこんな軽口を叩けるのかもしれない。でも、何のとらわれもなく考えてみると、見てみると二人の人がいた。そして、たしかに生きていた、というだけのことでしかない。そのどちらにも優劣はないし、善悪はもちろん価値の高低もない。
つまり、わたしで言うなら、
星大地(1983~20XX年)
というだけのことでしかないのだ。それと比べるかのように、芥川竜之介を持ってきても、野口英世を持ってきても、はたまた流産で死んでいった名前すらない人を持ってきても、そのどれが価値があってないか、なんていうことに白黒付けるのは意味がない。わたしにはわたしの有限な人生がたしかにあって、芥川には芥川の、野口には野口の、名前がない流産した人にはその人の人生があった。それだけのことなのだ。
と言いながらも、死ぬまで健康でありたいというのはすごく魅力的でその誘惑にわたし自身、目が眩まないと言ったら嘘になる。でも、それが本質なのではない。そして、このそれぞれの人生において何を成し遂げるかということも本質ではない。ただ、その人がその人なりに生きたというその確かな事実。それだけでいいとわたしは思う。何をやったとかやらないとか、成し遂げたとかできなかったとか、そんなことはどうだっていい。ただその生きている間、その肉体を取って生きていた。たしかにその人が生きていた。それだけで何も不足はないし、上等。文句なし。
が、もっと透徹した眼差しで眺めるのであれば、何が良くて何が悪いということもないのかもしれない。もちろん、この世の中では価値ある行為や物事、名誉あるものに、蔑まれるような下等なことなどがある。善もあれば悪もある、ように見える。でも、それをもっと透き通った目で見ると、ただあるだけということにならないだろうか。世界がある。わたしがある。他者がある。物がある。ただ、ある。そこに価値も善悪も優劣もない。ただ、ただ、ある。あるだけで「ある」以外に言うことも語ることもない。
健康でありたい。生涯、病気知らずで健やかでありたい。その気持ちは分かる。しかし、その考え、その哲学に自分自身を乗っ取られるのだとしたらある意味底が浅くはないだろうか。何もそれは誰かを批判したいのではなくて、わたし自身への厳しい戒めなのだ。
健康でありたいという、いわば「健康病」に支配されてしまう時、人というのは大事なものが見えなくなってしまう。健康であることが人生の目的なのではなくて、自分が生きること、今生きているこのこと自体が本来は目的のはず。
健康であることを至上の目的としてしまうと、それはいつかは崩れ去る。中には崩れることもなくポックリと死んでいける人もいるかもしれないものの、大半の人は何らかの形で病や障害を持つことになり、それを抱えながら生き、死んでいく。要するにわたしは健康というものにどこまでも執着していたんだ。自分の肉体に、快活さにどこまでもこだわっていた。あぁ、危うく健康病、もっと言うなら「健康教」というものに自分自身を乗っ取られて持って行かれるところだったんだなと今では思える。
「健康でいたい」。これを手放すのは容易いことではない。気が付くと自分の体を鏡で見ているわたしがいるのだから、まだまだ理屈はともかくとしても手放すところまでは行っていない。
肉体というのは仮の姿であって、わたしの本質ではない。本質はわたしの魂であり意識なんだ。だから、肉体を維持するために最低限のことはしつつも、それにこだわらず執着しない。それが大事なのだと思う。そんな調子でやっていたら、いつの間にか美しい肉体になっていた、なんていう逆説めいたことがあるかもしれないけれど、それでも執着しない。なかなか難しい。だからこそ、この執着を解き放とうとするわけなんだな、きっと。
聖書の言葉をきっかけにいい気付きが与えられた。とても有り難く尊い気付きだったように思う。手放していき自由になりたい。なんて言いながら、もう鏡で自分の体を丹念に見ているかのように体のことを考えてしまう。おいおい、全然手放せていないじゃないか。まぁ、いいじゃないですか。手放せても手放せなくても。本質は魂なのですから小さいことは気にしない、気にしない。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/元ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。