頑張るのは何のためなのさ?

いろいろエッセイ
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 頑張ることは素晴らしい。頑張ることは尊い。頑張ることによって世界は良くなっていく。だから、頑張らなければダメだ。
 この理屈を額面通り受け入れるかどうかはともかくとして、頑張っている自分がすごくわたしは好きだったりする。毎日ひたすら一つの目標に向かって自分を律して行動してやっていく。そんなストイックな姿にほれぼれとする。でも、時々ふとこれって何のためにやっているのかな、と思ってしまう時がある。
 今年の9月の下旬から始めたアシュタンガヨガ。今のところ順調にやれていて、申し分なしといったところ。けれど、その間というか、隙間に隙間風のごとくこの「何のため?」という問いが入ってきて、わたしにどうしてなのと突きつけてくる。答えはあるのか、ないのか。どちらなの? この議論は人類の歴史において未だ決着がついていない。
 目的がある。そして、その目的に向かって何らかのアクションを起こしてその目的地へと向かっていく。達成したい目的がある。だから頑張る。でも、その目的が果たして頑張るだけの価値があるように思えなくなると、人はとたんにやる気をなくす。頑張ることによって何か成果が得られたり、収穫があったり。そうでなければ人というものは大抵頑張ろうとはしない。
 あぁ、そうか。頑張るというのはやっぱり無理をしているっていうことなんだろうな。本当はやらない方が楽で、そのことをやる代わりに他のことをやっていた方が楽しかったり快適だったりする。でも、やっている。高い目標を達成するために。
 まぁ、高い目標とか夢とか達成したところでたかが知れていると言ってしまえば知れているのかもしれない。どんなにすごいことを達成できたとしても「だから何?」の一言で一蹴することはできるからだ。この言葉はすごく強烈ですべてをだからそれがどうしたんだ、と下にこき下ろしてしまう。第一志望の学校に合格しても、夢にまで見た仕事に就けたとしても、憧れの合格率の低い難しい試験に受かっても、はたまた大好きな人と結婚することができても、全部「だから何?」で一蹴することができてしまう。それに対して、夢なり目標なりを達成できた人はそのことがいかに価値があるかということを滔々と語るものの、その語りさえも何だか空しく聞こえてきてしまうから不思議だったりする。
 こうした態度や物の味方は冷笑的で冷めている。何をやっても「だから何?」の一本槍ですべてをこき下ろすわけだから。おそらくこうした見方しかできない人は、人生に絶望まではしていなくても、毎日がきっと死ぬまでの暇つぶしでしかないと思っていることだろう。
 それが、その態度が正しいのかどうか。つまり、結局のところこの疑問は、「人生には目的があるのか」という問いになっていく。
 人生になんて目的は何もありませんよ。あるのは毎日のドタバタ劇だけであって、そんなものはないのです。だから、死ぬまで暇つぶしをする。それが人生なのです。こう言ってしまうこともできなくはない。でも、本当にそれが正しいのか? 事実に照らし合わせて正しいのか? わたしはうーんと唸ってしまう。もしも、この人生が無目的なもので、すべてが単なる偶然の連続でしかないのだとしたら、今こうして生きていることもほとんど意味がないことになる。意味というのは誰かにとっての意味なのだから、もしもその人が「俺の人生に意味なんてないんだ」と思ったら少なくともその人にとっては人生というものは意味がない。周りの人たちが「そんなことないよ。意味があるよ」とどんなに説得に当たってもその人の考えが変わらない限りはその人にとっては意味が感じられないままなのは言うまでもない。
 人生に目的があるのかどうか。それも万人にとって正しい究極的な目的が事実としてあるのかどうか、といったことは置いておくとして、突き放してこのことを考えるのであれば、ヒトという生き物は太古の昔から人生の目的といういわば大きな大きな物語を作り上げてきた。それは天国だったり、輪廻からの解放である解脱であったり、いろいろだけれどもともかくそういった物語が人類と共にあり続けたことだけは事実だ。
 でも、わたしが問うているのは、人類がいかに無気力にならないために人生の目的という大きな物語を作り上げてきたか、といったことではなくて、事実として真実としてそういった目的があるかどうかということなのだ。だが、これに答えを出すのは難しい。なぜなら、答えを出すにしては話がスピリチュアル的だったり宗教的な、科学的な根拠を持ち出せないいわばフワフワした領域を扱わなければならないからだ。こうしたフワフワな感じの話をガッチリする、というのはどうも難しいと言うよりはうまくいかない。実際、多くの考えが対立してたくさんある状態で、「我こそは真理なり」と叫んでいるのだ。どれが真理なのかと言えば、クリスチャンであるわたしであれば、イエス・キリストこそが真理です、と胸を張って言いたいところだけれど、それを否定しないまでも若干それに対して疑う心が生じ始めている。もしかしたら、人生の目的なんてそもそもなくて、ただこの世界があって、そしてただ人間を含めた生き物たちが生きている。それだけのことではないのか?、という疑いが払拭できないからだ。
 こうなるとそれを解消するには権威というものを持ち出すしかない。その方法として一番手っ取り早いのが、「この人の言っていることは絶対正しい。なぜならこの人は嘘をつかないし、この人の言うことに嘘偽りはないから」という人の言葉なり考えを持ってくることだ。○○大学の教授が言っているのだからきっと正しい。○○の専門家が言っているのだから間違っているはずがない。と、信頼のおける人をどこまでも突き詰めていくと、人生の目的があるかどうか分かっていて、しかも信頼がおけるのは神様や仏様などの高次元の存在だということになる。だから、神様のお考えを聞こうとするのだ。でも、そもそもその神様が本当にいるのか、仮にいたとしてもそのお考えを正しく、伝える人が伝えることができているのか? 歪めたり曲げたりしていないだろうか、などと疑い始めると「う~ん」となってしまう。となれば、自分で神様の声を聞くなり何なりしようと神秘体験を求めるものの、万人がそういう体験ができるわけではないし、その体験自体が何か悪い存在によって欺かれてしまっているという可能性も十分にありうる。そうなると、結局何をわたしは信頼したらいいのでしょう、信じたらいいのでしょう、となってしまうことは事実で途方に暮れることになってしまう。
 さて、話を最初のほうに戻すと「何のために頑張るのさ?」ということだった。わたしは今こうして文章を書いているわけだけれど、この書いていることにはちゃんと目的がある。自分を成長させるため、自分の考えをまとめるため、同じ問いを持っている人の役に立つため、ネットという電脳空間に自分の財産であるブログの記事を増やすため、などなどちゃんと目的のようなものはある。けれど、こうした小さな一つひとつの目的は、詰まるところわたしの人生の目的へとつながっていくのだ。ブログを書いたり、お料理を作ったり、ヨガをやったり、毎日せかせか一生懸命やっているのは総合的にこのわたしの人生という大きな枠の中でどんな目的のためにやっているの、となるわけだ。なってくるわけだ。だから、この問いに答えられないことはある意味致命的だとも言える事態を引き起こしかねない。ブログ、お料理、ヨガ、毎日せかせかいろんなことをやっている。ぜ~んぶ含めて一体何のためなのさ、となってくるからだ。だから、だから、人は天国に入るためとか人類の繁栄に貢献するとかいった目的を必要とする。
 そう考えると子どもってある意味すごいなって思う。だって、子どもの遊びに目的はないでしょう? 強いて目的があるのだとしたら、今こうしてここでこうして遊んでいることが唯一の目的。つまり、今を生きている。目的を立ててそれに向かって邁進していこうとしている時には、思考というか意識はもう未来へ飛んでしまっている。未来のことを考えることによって今にとどまっていることができていないのだ。それはヨガをやっていると本当に感じることで、ヨガをやりながら「次何やろうかな?」とか「これが終わったら何をしようかな?」なんて考えたりはしないんだ。そうではなくて、ただ今に集中する。そして、ひたすら今ここにいようとする。今ここでヨガをやっていてポーズを取っていることに集中しようとする(そういう意味ではわたしなんかは「次のポーズ何だっけな?」とか雑念がわいてくるのでまだまだなわけです)。
 もちろん子どもは今やっている遊びが何の役に立って、こういうメリットがあるからやっているんだ、役に立たなければ無意味だからやめよう、などと打算的に考えたりはしない。そうではなくて、純粋にそれをやりたいからやっていて、それ以外に理由も目的も全くないわけなんだ。
 そうか、子どもというのはとても純粋で今を生きているんだ。遊びをしている時というのは、純粋に今にとどまっているんだ。それに比べてわたしを含めた大人たちというのは何て打算的なのだろう。役に立つことしかしたがらないし、これは無駄だなと思えば容赦なく切り捨ててやめてしまう。
 人生の目的とか、その今やっていることの目的だったり意義が分からないと落胆する大人たちと比べて子どもたちというのはそんなことお構いなしだ。どんなにそれが大人から見て時間の無駄遣いにしか思えないようなことでもやりたければコスパとか効率なんて考えずに夢中になってやってしまう。遊びは考えてみるまでもなくコスパとか効率とか生産性なんかとは無縁の営みだ。やっても何にもならない。ただやっている子どもたちが楽しいだけ。勉強ができるようになるわけでも、受験に有利になるわけでも、何か技能が獲得できるわけでもない。それでもやる。やりたいからやる。子どもって本当すごいなって思う。
 もしかしたらだけれど、人生というものは打つとすぐに文字が消えてしまうワープロみたいなものなのかもしれないと思う。もちろん、記憶という形でわたしの中には残るのだけれど、時間というものを考えると現れた途端に消えてしまう。今、と思っているうちにその今は過去となり、また今と思っているうちにその今はまた過去となり、といったことを延々とやっているのが人生ではないのか。今というものはすぐに入力した文字が消えてしまうワープロのように何も残らない。いや、記憶が残るじゃないの? でも、それは今の記憶にすぎない。残っているように見えながらもそれは今の記憶でしかない。要するに、わたしたちは全てにおいて今しか生きることができないのだ。物も記憶もすべては立ち現れては消えているものでしかない。連続して物や記憶があるように思えても、それは連続しているように見えるだけのことで、すぐ文字が消えるワープロと変わりがない。過去の物と記憶は今のそれらではないのだ。だから、立ち現れては消えている。そして、それを連続しているかのように思っているだけのこと。
 そうか。そう考えていくと、たとえ人生に目的や意味がなくても生きていけそうな気がしてくる。とにかくただ、今というこの時を生きればいい。そして、それ以外に他の生き方などない。人は今しか生きることができないのだから。本当に自由な仙人のような人はきっと人生の目的なんていうものに縛られてはいないだろう。そうではなくてきっと今に遊び、今を生きているはず。それこそが本当の意味でしなやかで自由な生き方ではないか。そのやっていることが何かの役に立つかどうかではなくて、ただそれをやること自体が目的のような、そんな自由な境地。逆に目的がどうこうと言っているのは今を本当に生きることができていない。意識が未来に飛んでしまっていて、今にいることができていないんだ。だから、今にいよう。そして、今を生きよう。それがきっと人生というか、生きていることの目的であり意義なのだと思う。と言ってしまうとまた意識が未来に飛んでしまうので、目的とか意味とか意義とかそんなことは考えないようにしよう。そういったものがなくてもやっていけて生きていける。それこそが遊ぶように生きるという本当の意味だとわたしは気付いた。
 子どものように、今に遊び、今を生きる。どうやらこれが答えのようだ。



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