母はわたしに言う。老後が不安だ。これからが不安だ、と。で、わたしが返す。「歩いてみるのがいいんじゃない?」
以前、老後の2000万円問題などが取り上げられたことがあったので、老後に不安を抱いている人というのは多いかと思う。で、結論から先に言ってしまうと、一番賢く、一番お金の問題をスマートに解消する方法は健康でいること。これに尽きる。本当、これに尽きるんだ。
なぜこう考えるかと言うと、それは祖父の不本意な姿を見たからだ。祖父は晩年、介護施設で暮らした。本当は家で暮らしたかった。しかし、家ではとてもではないけれどわたしと母ではみることができない。精神的にも体力的にも祖父の面倒をみるなんていうことは無理で、そうなると施設に入ってもらうしかないことになり、結局そこに入ってもらった。
もしも、と考える。祖父はいつも車に乗っていた。運動らしい運動なんてしないで老後も車に乗り続けた。もしも祖父が運動をしていたら、歩いていたら、もしかしたらだけれどこれほど長期間施設に入らなくても良かったのではないか。入ったとしても短期間で本当に終わりの間だけで済んだのではないか。そう思えてならない。
人生は決断である。何をして何をしないのか。何を選択して何を選択しないのか。その連続と積み重ねによってこの人生というものは科学的に考えるなら成り立っている(もちろん他の世界観も当然ある)。だからこそ、運動をして足腰を弱らせないようにするという選択をすれば自ずとそうなっていくし、それをさぼって怠けていれば体はどんどん衰えていく。
最初の話に戻ると、母はお金のことが不安だと言う。もしも自分がこれから施設に入らなければならなくなったらお金が足りなくなるのではないか。病気をしたら治療費がものすごくかかってしまうのではないか。そう思うと節約をして未来に備えるしかないし、どんなにお金を貯めても貯めても不安がなくならない。そんな感じのことを言うのだ。
たしかに祖父の場合、施設代が本当にかかった。祖父には毎月、年金収入があったわけなんだけれど、そのうちのほぼ全額(税金とか色々徴収された残りの金額)と言ってもいい額が施設代へと消えていた。それは情け容赦ないものですべて持ってかれているような、そんな感じだった。
それって幸せなことなのだろうか? 自分の収入がすべて施設代に消えていて、その施設に入っていること自体が自分が希望していることではなくて、本当は家に帰りたい。でも、家族の都合でそこにいなければならない。いたくもない場所にいるために大切な自分の毎月の年金がほぼ全額充てられる。言うまでもなく、それは不本意だ。本当はそんなことは望んでなんかいない。
それに介護されるというのも楽しいものではないと思う。わたしは介護された経験がないからその当事者の気持ちは察するしかないけれど、みんな、体の不自由な老人も身体障害者の人たちもできることなら自分で何でもかんでもやりたいのではないか。サクサクサク~っと軽快に動きたいのだと思う。それに金銭的な面だけではなくて、自分が介護されるということがもしかしたら歯がゆく不本意なのではないだろうか。本当は自分でやりたい。自分で動いて自分の好きなようにしたい。でも、体が動かない。それが最高に楽しくて幸せだなんていう人、いるのだろうか。どんなに「今が幸せだ」と言っているそうした人であっても、実は胸の内では体が自由に動くことに、自分でやれることに憧れているはずだ。
何でわたしが母に「歩いたらどう?」みたいないことを言ったかというと、すべての移動の基本は歩くことだからだ。つまり、歩行ができなくなると身体的な介助が必要になってくる。歩ければ、少なくとも自分で移動できれば(まぁ、それだけだとは言い切れないけれど)そんなに人の助けを必要とすることもない。わたしたちが当たり前にやっているこの移動するために歩くということはすべての基本であって、これができなくなると生活が著しく障害されるようになる。母が心配している介護が必要になって施設に入らなければならないのではないか、ということも移動ができなくなることが一番の原因なのだろうと思う。
だから、歩く。歩けば足腰が丈夫になって身体的な介助をしてもらうことからは遠ざかっていく。それに歩くことはすごく体にもいいからいろいろな病気をも遠ざけるし、今現に何かの病気であったとしてもそれを回復させる。それとあと付け加えるなら、健康的な食生活と良質の睡眠を、と言いたいところだけれど、よく歩けば自ずと健康意識も高まって体に悪い食べ物を避けるようになっていくし、昼間よく歩けば夜もぐっすり眠れるようになるから睡眠もクリアーできる。
言うまでもなく、施設代というのはお高い。ピンからキリまである。でも、本当なら施設のお世話にならずに住み慣れた自宅で暮らせるのが一番の幸せではないかと思う。まぁ、どうしても「わたしは施設がいいの。施設暮らしに憧れるの」という人もいるかもしれない。けれど、祖父が入っていた施設のスタッフがしみじみと言ったことで忘れられないのが「みんなお家へ帰りたいんですよ」という一言。みんなお家へ、自宅へ帰りたい。自分のホームはやっぱり居心地がいい。だって、自分が一番居心地がいいようにすべて自分好みにしてあるんだから。家具にしても、寝具にしても、家の間取りにしても、食事にしても、そして、そこで一緒に暮らしている人もみんな好きなものばかりだ。好きなものに囲まれている。それが自宅。だとしたら、何でそれを高いお金を払ってまで施設で暮らそうとするのか? 自宅があるじゃないの。自分が帰るべき、いるべき場所が。
それとわたしは母にこんなことも言うのだけれど、「特別養護老人ホームは所得に見合った施設代が請求されるからそんなものすごい金額が請求されることはないよ」って教えてあげたんだ。もちろん、高齢者の施設でもお高い施設ともなれば月に30万円以上とか、いやいや入所するだけで何千万円もかかるとかリッチな人向けのものもある。でも、普通に公的なって言ったらいいのかな。そんなに高望みをしないでしっかりと公的な介護保険なんかを使って専門家のケアマネージャーに相談しながらやればおかしなことにはならない。まぁ、わたしの祖母みたいに輸血が必要で、それも特殊な輸血が生きていくためには必要で、みたいな特殊な例ともなれば医療難民とか介護難民になってしまうこともあるけれど(輸血が必要だから普通の施設では受け入れてもらえないということで)、通常の、普通の場合であればそんなことはまずない。
あと医療費についても高額医療費制度(だったと思う)なんかを利用すれば、どんなに医療費がかかっても所得に見合った金額までしか請求されることはない。これで病気になっても安心、安心なわけなのだ。
でも、介護が必要になっても病気になっても安心だと運動もせずに暴飲暴食の不健康な乱れた生活をしていたのでは最終的には不本意な事態になってしまう。「わたしは介護されるのが最高に楽しいんです。介護されることこそが生き甲斐でそれ以上に幸せなことはないんです」とか「もう病院へ行くのがどんなことよりも楽しくて楽しくて仕方がないです。病院へ行って治療さえしていればもう他に何も要りません」などと言う常軌を逸した変人は置いておくとしても、そんな人はまずいないだろうから自分でやれることはすべしだとわたしは思う。で、やれることをちゃんとやって、それでも病気になったり介護が必要になったりしたら、それは運命とか天命なんだろうと思う。それはもう仕方がない。やれるだけのことをやって気を付けて自分を律していてもなったのだから仕方がないとしか言いようがない。その時はその時で、諸制度を活用して賢く立ち回りをして最善を尽くせばいい。そのための諸制度なんだから。
だから、歩く、食事を気を付ける、家計簿をつける、くらいから始めてやっていくのが賢明なんじゃないかと思う。それに、備えておくことは必要なことで大事だけれど、まだそれは起こっていないことであって、これから起こるかどうかも分からないことだということも忘れないようにした方がいい。100%将来、施設に入ったり、大病をすると決まったわけではないんだ。だから、今どうするか。どう行動してどう変えていくか。何を選び、何を選ばないようにするのか。それだけだと思う。
人間はみんないずれは死ぬのだから、できることなら死ぬまでの間、自由に自分らしく生きたい。それが人々の願いなのは言うまでもない。そのためにどうすればいいのかと考えて実行する。そのための一つの案がわたしがこの記事で書いたことだと思ってもらえばいい。
わたしのこのごくごく平凡な知恵を活用していただけたら嬉しい限りです。当たり前すぎるけれど、当たり前のことほど難しい。そんなことも思ったりする今日この頃です。
すばらしき人生があることを。それではまた!!
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。