自分軸

 何の本だったか、多分、精神科医の樺沢紫苑さんの本だったような気がするのだけれど、そこでは自分の軸、つまりは自分軸について書いてあったかと思う。
 人の意見に流されやすい人は自分軸を持った方がいいとのことで、それを読んでそうだよなぁと樺沢さんの意見に流されているわたし。結局、自分軸がないから自分軸を持った方がいいっていう主張に流されているわけであって……。
 かく言うわたしはすごく素直な人間であって、誰かからこう言われると「そうだよなぁ」と思い、また別の誰かからまた違うことを言われると「それもまたそうだよなぁ」と思ってしまう。いろいろな意見や考えに出会うたびに、その意見の色に染まってしまうのだ。
 これではいかん、と自分軸を持とうと努力してきたものの、何だかそれでも心許ない。どうしたら自分軸って持てるんですかね? わたしはやっていること、接していることなどからモロに影響を受けて、すぐにそのカラーになってしまう。
 でも、それは仕方がないことなのかもしれない、とも思う。だって、そのいわば浸かっているものや事柄というのは、やっぱり自分の人生の時間をそれに費やしているわけなんだから。キリスト教の本を読んでいればがぜんキリスト教に傾いていくし、無神論の本ばかり読んでいれば無神論者への道を突っ走っていく。これは当然というか、当たり前のこと。赤色のシャワーを浴び続ければ赤色になっていくだろうし、青色ならおそらく青色になっていく。別におかしなことではない。むしろ、赤色のシャワーを浴びているのに青色になる方が道理から外れていて、お前はこの赤色の環境下で何をやっていたんだという話になる。
 しかし、それでも自分軸を何も持っていないままいろいろな世界へ飛び込んでしまうと、行き当たりばったりで運任せになってしまう。それはまるでサイコロを振って6の目が出たから教会へ行くというのと何ら変わらない(ってちょい違うかもしれないけれど)。
 自分軸がない人というのは落ち着かない人だと思う。なぜなら、次々に色を変えていくからだ。30分前までは赤色だったのに、もう今は緑色になっている。で、また15分したら今度はオレンジになっていて、てな具合に忙しいったらありゃしないだろう。
 そこまでわたしに自分軸がないわけではないけれど、その話を笑っていることもできない。そこまで短時間ではないにしろ、学んだことからすぐに影響を受けて色が変わってしまうのがわたしだからだ。でも、それって当たり前のことなのでは? 学ぶっていうことは「まねぶ」、つまり真似をするということ。だから、自分とは別のものを真似してその真似しようとするものから色の影響を受けるんだ。逆に何も変わっていないのならそれは学んだことではないはずだ。あぁ、そうか。わたしがおかしなわけではなかったんだ。ほっと胸をなで下ろす。
 でも、もう少し自分の中にしっかりとした信念を持ち、ぐらついたりブレたりしないようになりたい、というのがわたしの本音なのだ。と、ということは学ぶことによって変わるのは仕方がないとしても、自分の幹の部分、または根っこの部分は変わらずにいたいということなんだな。ほうほう。わたしはそういうことを言いたかったわけか。
 自分軸を持つということ。そのためには自分が目指したい自分、つまるところの理想の自己像がはっきりとしていなければならない。自分がこうなりたい、こうありたいというのが明確でなければやはり毎日の生活に一貫性を持たせることは難しい。たとえば、わたしはポカポカした優しい人になりたいんだと思ったとする。そうしたら、そうなるために必要なことをやっていくだろう。となれば、優しくポカポカした自分になるために必要なことを選ぶようになるし、暴力性を助長するようなものは避けるようになる。反対に野心に燃えたギラギラしたアクティブな人になりたいと思うのであれば、優しい人になるようなことをやっていては目標を達成することはできない。これは要するに腹筋を強くしたいのであれば、腹筋に効く運動をやらなければいけないというようなことだ。腹筋を強くしたいのに、腕立て伏せをやっても腹筋は一向に強くはならない。だから、自分軸を持つということは、自分の目標をしっかりと定めてブレずにそれに向かってやっていくために必要な軸であって、言い換えれば目標とか目的地をしっかりと持つことではないだろうか。自分軸を持ってしっかりとやっていたとしても、やはり自分というのは瞬間ごとに刻々と変化しているものなのだから、不変でいることはできない。変わっていく。刻々と移り変わって、自分自身が変わっていく。けれど、それでも変わらないものが自分軸だとしたら、それは理想の状態に到達するための目標ではないかと思う。と言いつつも、小さな目標はその時のはかどり具合などによって、次々と修正されていく。が、変わらないもの。それは大きな目標なのだ。それも大きな大きな人生の目標。これは進捗状況などから影響を受けることはまずない。というか、これが昨日と今日で大きく変わるとしたら、それは生き方の大変革であって、人生のターニングポイントだと言える。今までは悪い生き方をするのが人生の最大の目標だった人が改心して心を入れ替えて人のためになることをやっていく人生を送る、と宣言するようなそれほどの大変革なのだ。
 あぁ、そうか。自分軸を持つというのは誰から何を言われてもブレないような理想の自分の姿を思い描いて、目的地をしっかりと定めるということなんだな。ぼんやりとだけれど分かってきたよ。自分の軸と書いて自分軸。要するに、自分がどちらを向いているかっていう軸のことなんだ。その方向性、目指しているところ。それらが人の意見や言葉によってグラグラしない。それが自分軸。
 たしかに自分軸がない人ってひたすら大きな人生の目標や自分の理想像を持てていない人なんだろう。で、自分が出会うもの、言われた言葉などによって自分の向きを右に左にと変えられてしまう。でも、自分軸のある人は違う。その人は小さな目標は絶えず修正しているけれど、大きな大局的な目標は変わらずしっかりと持ち続けることができているのだ。
 ということはだ。自分の方向性をしっかり持てばいいってことなんだな。どんな逆風にも批判にも負けない、がっちりとした軸を持てばいいんだな。
 わたしのヘブライ語の勉強にしても、大きな目標がしっかりとあるからこそ、そしてそれがブレていないからこそ続けることができているんだな。だから、大きな目標を持つということ、自分の理想の姿をしっかりと思い描いて定めるということは必要なんだ。もちろん、わたしは行き当たりばったりの出たとこ勝負の風任せの人生を送るんだ、と言う人であっても、その人だってそういう人生を送るんだという信念は持っていて、出たとこ勝負だとしてもブレない目標は持てている。風任せの人生を送るんだとしっかりと方向性は定まっているし、その人は誰かから何か言われても「じゃあ、わたしは計画的にやっていきたいです」とは言わないことだろう。あるいは、「わたしは人から言われた通りの人生を送りたいと思っています」という風変わな人がいたとしても、それならそれでその人が納得してそう生きていきたいのなら構わないとわたしは思う。言われた通りの人生を送る、というしっかりとした信念を持てているのだから別に外野がとやかく言うことはない。けれど、一番問題なのは、本当は人から言われた通りに生きたくないのに無理矢理強制されてその生き方を嫌々やっていたり、嫌々どころか絶対に嫌なのに暴力などを突きつけられてやらざるを得ない状況に陥っているような場合だ。でも、他にも問題なのはそういった自分の信念や気持ちなどが何もなくて、いわば麻痺してしまっていて、ただ本当に何となく何も感じることもなくひたすら流されているだけという人ではないかと思う。そういう人は利用される。そして、自分に都合のいい奴隷として扱われて搾取されるのだ。「この人は何を命令してもおとなしく従う。逆らわないし、自分の考えなんてものがないようだからいくらでも搾り取れる。操り人形みたいなもので便利な奴だよ」と際限なく利用されるのだ。
 どんなに意志がないように見える人であっても快、不快の感情はある。これはいいけれど、これは嫌という感情はある。自分軸というものを深く考えていくと、自分の快、不快をしっかりと理解してそれに忠実であることだとも言えそうな気がしてきた。大きな目標を立てたり、自分の理想の姿を思い描くのは、つまるところ大きな快を分かっているということだとも言えるのだ。自分の人生が自分の描く方向に進んでいる時に人はとてつもない快感を感じる。逆に自分の人生が理想とかけ離れている時、人は悩む。そして、不快になる。自分が大きな快感、この場合には人生を思い描いたように生きているという快に満たされるためにはどうしていったらいいか。そのことをしっかりと分かっていて、かつ人の意見に流されないのが自分軸があるということなのだ。つまり、自分軸がある人というのは自分が何をやれば快を得ることができるか分かっているのだ。そして、そのためにはどのようにやっていったらいいのか、というのが確立している。自分がどうなりたいのか、ということをしっかりと分かっている上にそれがはっきりとしている。
 自分軸。自分の生き方の指針。方向性。目的地。人生の目標。というか、わたしは持てているじゃないか。自分にはそういったものがないとか思っていたけれど、あったよ。
 小さな目標はたえず変わっていくもの。方向性も微調整しながら進んでいく。でも、進むべき道はわたしの場合、終末の復活であり天国なんだな。もうそれ以外に人生の目標はない。ってそういうのじゃなくて、現世での目標だと思うんですけど? えーとね、月並みですけど、幸せな時間をいっぱいにして幸せいっぱいで生きることかな。そして幸せな人生を送る。で、そのために何をやるのが一番いいかっていうのを考えながらそれらしいものを今、ぼちぼちやっているっていうわけなんだ。だから、方向性はしっかりと持っているし、そういう意味ではブレてはいない。ブレているように見えるけれど、大局的にはブレてない。何だか安心したよ。実は星さんはブレてはいませんでした。って意外な結論?
 わたしは幸せを求めていて、幸せな人生を送りたいと思っている。で、そのために幸せを感じることをやっている。で、いいんじゃないの? だめ? ていうかこれはわたしの人生だからね。好きなように生きさせてもらうよ。えっ? 神様に従うのがキリスト教徒の人生なんじゃないかって? もちろん分かっておりますよ。だから、従いながら歩んでいるではありませんか。
 無事、わたしの自分軸が見えてきたところで今回も一件落着。長文お付き合いありがとうございました。結構疲れました。ではでは、またね。

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