子どもの遊びのように

いろいろエッセイヨガ
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 今朝、3時30分頃(って夜中だな)目が覚めて起きた。そして、舌磨きや白湯飲みなどのいつものルーティーンをこなし、それから何ヶ月ぶりだろう。オイルマッサージをして、シャワーを浴びて、ヨガをやった。だいたい50分くらい。が、おそらくヨガをやったせいだと思うのだけれど、それで疲れてしまって、まだ一日が始まったばかりだというのに何もやる気がしないお疲れさんモードになってしまった。
 わたしは何かの時に、朝ヨガやってますよ、みたいなことをこのブログにも書いたりしていたけれど、実のところ、そこまで朝ヨガを日々の日課としてやっていたわけではない。朝、やったり、やらなかったり。いや、朝やらないことの方が断然多くて、やったとしても朝食を摂ってからしばらくしてから、というのが多くて、全然朝ヨガはしていなかったようなものなのだ。だから、今日の朝ヨガは本当に久しぶりのようなものだった。で、やってみたら猛烈なだるさに襲われて、みたいなそんな有様。
 何でまた急に朝ヨガをやってみたくなったかと言うと、昨日、ヨガのDVD付きの本を読んだからで、その本にはしきりに朝、ヨガをすることがすごくいい、って勧めていて、じゃあ、やってみるかと思った次第。が、ここまで朝ヨガ(朝食前)をやって疲労困憊になって疲れ切ってしまったのはこれが初めて。疲れてたのかなぁ。あるいは、いつも以上に体力が落ちていたのかなぁ。睡眠時間が少なかったからかなぁ。などと理由を探してみても、現にだるくなってしまったのはしまったのだから後の祭り。
 で、朝食を摂ってから寝てましたよ。久しぶりだな。朝ご飯を食べてから寝るのって。というわけで、教訓としては朝食前の朝ヨガはわたしには向いていない。ヨガをやるのなら、朝食後2時間くらいの11時頃にするか、あるいは午後にするかした方がいい。それが分かった。まぁ、今日のだるさは授業料みたいなものだと思って、同じことは繰り返さないようにしよう。そう考えると、わたしの毎度恒例のぐだぐだ不調日記は本当進歩がないよなぁ。同じことを同じようにやって、やめられなくてまた同じ穴に落ちて不調になっているみたいな、ね。
 ま、それはいいとして、わたしは素直な性格なのか、本なんかで誰かがこれがいいですよぉ~って勧めてるものを手当たり次第やりたくなる方なんだよな。要するに、自分軸がないというか、何というか。人が何か言うと、「あ、いいかも」と思い、また別のある人が何か言うと、「それもいいかも」と思う。あっちにゆらゆら、こっちにゆらゆ~ら、てな具合に振り回されるって言うのも何だけど、揺り動かされるんだ。もしかしたら、これはわたしだけではないのかもしれない。特に精神障害のある人に多そうな話じゃないかな、とも思う。わたしは勧誘を普通に「結構です」って断れるけれど、話を聞いてしまうとおそらくもうダメだな。多分、買っちゃう。ってカモ(鳥のカモ)感丸出しのわたし。いや、ねぎだって持ってます、てな感じでまさにカモネギ。
 自分軸がしっかりとあれば、これは自分に必要なもので、これは要らないものだと判断することができる。要するに、何を優先しているのか。そして、今、どこを目指していて、どのようになりたいと思っているのか。何を大切にして、何をどうでもいいと思っているのか。そうしたことがはっきりとしていれば、誰かが何かを「いいですよ、これ」と勧めてきても「要らないです」と断れる。
 そう考えると今のわたしはどこか宙ぶらりんなのかもしれない、と思えなくもない。何というか、人生の指針というか、大きな目的のようなものがない。ミニマリズムに出合ったのはいいのだけれど(すごく人生を好転させてくれた)、でっかい野望というか、大きな夢や目的なんかがなくなってしまった。っていうか、別にお金を余分に手に入れようとしなくてもいい。だから、何かで特大ホームランを打って、人生を大逆転する必要もないんだ。でも、そうなると今度は細々と今の生活を維持して続けていくだけ、となる。まぁ、こういうことを言うのはわがままだということは分かっている。ないものねだりだということは百も承知の上。でも、何かぽっかり心に穴があいている、とまではいかなくとも、目標がほしいなぁ。それも特大ホームランのようなものでなくてもいいから、人生の目標のようなものが。わたしの場合、「今のままでいいよ」ってミニマリズムに言ってもらえてすごく安心した反面、その今まで抱いていた大きな野心や野望がなくなってしまったから、どうも手持ち無沙汰なんだ。
 となれば、何か少し大きめの目標でも作りますか。社会的成功とかステータスとかお金を手にれるとか、そんなこととは関係のない人生の大きな目標や中くらいな、小さな目標なんかを。でも、これって結構難しいぞ。何か今までの人生の目標ってでかいホームランを打つことだったから、別に打たなくていいとなると急にぽっかりしてしまうんだ。別にやっていけないほどではないけれど、「じゃあ、何か目標を」と急に言われても思い付かない、みたいな。
 でも、そもそも人生に目標とか目的ってあった方がいいのかなぁ? いや、なければならないのだろうか? そもそも、そこからしてわたしには分からない。とかく西欧人、それもキリスト教徒の人たちなんかは人生を直線的に捉えていて、絶え間ない成長を志向しがちだ。でも、それさえも一つの見方でしかなくて、仏教的な円環的な考え方だって一方ではある。まぁ、仏教では悟りを開いて、輪廻から解脱することを至上の目的とはするのだけれど、おそらく大抵の凡人にはそんなことは無理。となると、グルグルと、生まれては死に、生まれては死にを繰り返すしかない。
 と言いつつもわたしは今までというか、日本で教育を受けてきて目標とか目的を持つことは大切で必要なことだと当たり前のこととして教わってきた。だから、ということと、そしてキリスト教徒であるがゆえになおさら目的やら目標を立てなければならないという思考の枠にはまってしまうのかもしれない。
 さて、と考えてみる。今まで何か目標を立ててそれを達成した時、どんな気持ちになったのかを。そうだな。嬉しかったな。やったぞ、みたいな達成感があって自分がここまで来たんだという実感もあって、やり遂げたみたいな満足感さえあった。でも、その喜びは今思い出してみると持続しなかった。続かなかったのだ。目標を立ててそれを達成するとしばしの喜びがある。けれど、その束の間の喜びの後にはまたもう一つレベルの上がった目標ができる。となればそれも達成するしかない。で、頑張る。すると、また目標が……。と目標を達成しても、達成しても、どこまで達成してもまた新しい目標ができて終わることがない。考えてみると、これは幸せなことなのだろうか。どこまで行っても、行こうとも目標が目の前に立ち続ける。目標、達成。目標、達成。目標、達成、の終わることなき目標とその達成。まぁ、これをひたすら繰り返していけば、かなり高度なところまで行けるだろう。目標を達成するたびにさらに上の目標を立てるわけだから、これを繰り返していけばどこまでも成長できる。でも、果たしてそれが本当にいい人生なのだろうか。目標やら夢やらを達成し続ける、叶え続ける人生こそが最上の、最高の人生なのだろうか。そう考え始めるや否や、急に分からなくなってくる。わたしの人生って自分が立てた目標を達成するためにあるのかなぁ、なんて思いたくもなってくる。
 うーん、と唸ってしまう。が、ここで別の方向性が立ち現れてきた。平安という方向性だ。至福と言ってもいいかもしれない。目標を達成し続ける人生とは言うならば、欲望を充足して叶え続ける人生だった。でも、そこには平安はおそらくない。あるのは目標を達成した時の一時の満足感と、そして目標に向かっている時のハングリーな欲求不満なもっともっとという気持ちだけ。でも、平安はこれとは違う。平安とは心が安らかで穏やかな状態のことで目標を達成しようとか、達成しなければ、などという波風はない。考えてみれば、木の下でひたすら瞑想している人はそれだけで満たされている。何か目的や目標を達成しなくてもただそれだけで満足できていて、至福の状態なんだ。もちろん、そうは言っても、悟りを開くとか平安を手に入れようと思い、それを目標にしてしまったらそれはそれでまた執着であって、目標を達成しようとシャカリキになって取り組んで心を乱しているのと何ら変わらなくなってしまう。そうではなくて、もう今やっていることが、ただ瞑想していることそのこと自体が既に目的となっている。だから、あえてこれをやりたいとか、これをしなければならないなどと目標や目的を立てる必要がない。
 そうか、要するに目的や目標を立ててそれに向かっている人とそういったことをしないでひたすら瞑想している人との違いは、今を生きているかどうかという違いだったんだ。目的とか目標を立ててそれを達成しようとしている人は、視線が今ではなくて未来に向かっている。とは言えども、今目標のためにやっていること自体を味わえているのなら別に何も言うことはない(そういう目標を立てながらも今を生きることができている人は少数ながらもいることだろう)。でも、多くの目標を達成しようと努めている人は今を生きることができていないのではないか。何もすべて目的や目標を立てて何かに取り組むことが無意味だとか無益だとか言いたいわけではない。ただ、わたしはあり方を問うているのだ。
 目的があって手段がある、と人は考える。でも、瞑想のように手段そのものが同時に目的ともなってしまえば、これ以上に満たされた状態というのはないと思う。だって、それをやっていること自体がもう既に目的なのだから最強じゃないか。そうなれば、未来という先に目標やら目的を設定する必要もない。ただ、瞑想を通して平安な状態にいる。もうそれだけで平安が手に入れられているわけだから何も不足はない。何かを手に入れたり、何かを達成したりする必要もない。ただ、静かに座っているだけでもうそこには平安があるのだから。
 何かを手に入れなくても、何かを達成しなくてもそうするまでもなく満たされている。そんなあり方、いいなぁと思う。けれど、同時になかなか別の意味で高度な話だなぁとも思う(笑)。
 あ、そうか。それをやっているそのこと自体が目的であるような、そんなことをやっていけばいいわけだな。それは言うまでもなくすごく好きなこと。そして、本当にやりたいこと。人から何も言われなくても自分ですすんでやっているし、目標なんか立てなくても既にやっていること。これは子どもの遊びを考えてみればいい。子どもが遊ぶ時に、今日は30分間砂遊びをしよう、なんていう目標は立てないだろうし、母親から言われて渋々遊ぶなんていうこともない。子どもは誰から言われるまでもなく、遊びたいから遊んでいる。そんなあり方、というか方向性。えてして、大人はとかく目的や目標を立てることにこだわってしまう。そして、最小限の労力でそれらを達成することばかり考えがちだ。でも、そうではない。そうではないあり方がしっかりとある。やりたいからやる。何かの役に立つことがなくても、そんなことお構いなしにやる。だってやりたいから。それほどやりたいことをやれているのなら、もうそれをやれている時は幸せなはずだ。いや、幸せだということさえも考えないかもしれない。ただただ、無我夢中で時間を忘れるほどに没頭している。ただそれだけ。
 何かに夢中になれているような、そんな人生送りたいなぁ。っていうか、そんなこと考えなくてもやりたいことならやってますから。以上、ぐだぐだ書きました。読んでくださりありがとうございます。



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