スマホは電車の中だけですよね?

いろいろエッセイ
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 素朴な疑問なんですけど、質問してもいいですか? 電車に乗るとみんなスマホを見ていますよね。あれって電車に乗る時だけですよね?
 こんな素朴なことを母に聞いたら「そんなわけないでしょう」と一言、少し笑いを含めて返されてしまった。え? 違うの? てっきり、電車に乗っている時だけしかみんなスマホを見ていないものだと思っていたのに。
 何かの本に、スマホを見たり、パソコンをやったり、テレビを見たりしている時間、いわゆるスクリーンタイムが若い人だと平均4時間とか5時間くらいだと書いてあった。そ、そんなに? というか、みんなそんなにやって調子悪くならないの!? わたしなんてもう画面を15分以上見ているともうダメで、30分を超えて1時間、2時間ともなれば、もうヘロヘロになってしまってすごく消耗してしまう。で、思考停止の脳味噌ヨーグルト状態になってしまって、何にもやる気も起こらなくなってパープリン(この表現、差別的?)になっちゃう。まぁ、一言で言うなら使い物にならなくなる。となれば、ただぼけーっとしているだけで、感情も動かなければ、何かをやりたいとかそういう気持ちもなくなる。
 みんなすごいなぁ~って本当感心してしまう。それだけ画面を見ても普通でいられる、そのメンタルの強さというか、脳の出来というか、本当感心せずにはいられないのです。ということをまたしても母に言ってみたら、「みんな本当は調子が悪くなっているんじゃないの?」と的確なご意見。みんな、長時間のスクリーンタイムで不調になっていないなんてことはなくて、実は不調になっていて、しかもそれが日常的な当たり前のこととなってしまっているから、その調子の悪さにも気付いていないのではないか。母の分析はスルスルと展開されていく。たしかに不調、というか、調子が悪いのが普通だったらそれが普通になるわけなんだから、それに気付けないのではないか、というのはもっともなことだとは思う。意外とだけど、平均的な若者は実はデジタル不調だったりして。そんな可能性というか、それが本当のことかもな、ということにわたしは思いを馳せてみたりもする。
 そんなわけでデジタル機器を使いすぎることには前々から警戒しているわたしは(わたし自身についてはぐだぐだ不調日記で検証済み、というかもういい加減にせいよ?)、今、全国の小中学校で行われているというGIGAスクール構想に対しても批判的だ。小中学生の一人に一台、タブレット端末とかノートパソコンなんかを与えて、それを利用して学校での勉強の補助に使うというものなんだけど、これって絶対メンタル不調増えると思うんですけど、思い過ごしなんでしょうか? というか、わたしの頃にこんな構想がなくて良かったなぁって本当思うよ。そんなことやられていたら、きっとメンタルダウンしていたよ。で、勉強も集中して取り組めなくなって学力も低下していただろうと思う。
 以前、わたしは教会で若いある人と話をさせてもらったのだけど、その人は教員(学校の先生)の免許を取るためにたしか小学校って言ってたと思ったけどな。小学校へ行って教育実習をしてきたらしいんだ。で、その時の話をわたしに聞かせてくれたんだけれど、何でも最近の小学生というのは感情がないらしいんだ。一言で言うなら無気力で子どもらしさがない。子どもって普通のイメージだと無邪気で天真爛漫で笑いながらあたりを駆け回っているようなイメージがあるんだけれど、実際はそんな感じではなくて無表情で生きる上でのエネルギーが乏しいとのこと。で、さらにはタチが悪いことに先生にエンターテインメントを要求してくるらしいんだ。まぁ、それはもっともと言えばもっともなことで、今はYouTubeとかいろいろ面白い動画が巷には溢れているから、「何か面白いことを言ってよ」みたいになるのは仕方がないことなのかもしれない。その小学生たちは日頃良質(と言っていいのだろうか)なコンテンツにふれているから、少しばかりのことでは喜ばないし、感情が動くこともない。だから、目の肥えたお客さん状態になっていて、とにかく子どもの無邪気さのようなものがないらしい。子どもって些細なこととか大人があまり面白いとは思えないようなことにも面白さを見出す天才だと一般的には思われているけれど、その小学生たちはちょっとやそっとのことでは喜ばない。と言うよりも喜べなくなっていたとのこと。
 そんな話を聞いていてわたしはその人にデジタル化の影響ではないでしょうか、みたいなことを質問したらその考えにすごく共感してくれた。「本当にそう思いますよ」って。
 ところで、ここに一輪の花があるとしよう。それが目の前にあるのか、それとも画面の中に映し出されているだけなのか。両者は明らかに違う。でも、人はデジタルのその画面に映し出されたもので満足してしまう。そして、分かった気になってしまう。でも、その花を手にとって匂いをかいでみたり、手に取ってみた時の質感や重さを感じたり、あるいはその五感で感じながらも、何かそれだけではない第六感的な言葉では表現できない何かを感じたりする。
 とここまで書きながら、これはわたし自身にとっても痛い話だったりする。わたしも何かしら画面を見るだけで満足してしまうということは日常的によくある。それがポルノだったりするわけだけれど、画面の映像だけでは伝わらない何かが実物の本物にはある。ただ、そうは言いつつも省エネ的に生きていくためにデジタルを活用するということもある。けれど、そればっかりになってしまう時、人は何か違う方向へと進んでいってしまうのではないか。さらには、大切な何かを置き去りにしてしまうようにも思える。
 話をまた最初の電車でのスマホに戻すと、彼らが電車の中でそれをやっていることだって明らかに何かを失っている。スマホの画面にかかりっきりになることで、その電車の中で流れていく時間だったり、まわりの人の何気ない表情だったり、聞こえてくる音だったり、移り変わりゆくその言葉では言い表すことのできない何かだったりがこぼれ落ちていく。今を生きようとするのであれば、ただ過ぎていく時間を何もせずに、ただその流れていくものに身を委ねるという過ごし方もできる。
 わたしが特に思うことは、デジタル機器などの画面を見ている時というのは、今を生きることができていないんじゃないか、ということ。何か今にアクセスできていないような感じがするんだ。その画面にのめり込むことによって、今ははるか後ろに置いてきぼりになって、ただ未来、未来へと意識をどこまでも先送りさせ続けているような、そんな感じがするようにわたしには思えてならない。そして、さらには自分自身の欲望のとりことなってただ欲望がまるで主人か何かのごとく、ただ欲望をかなえよう、かなえようとばかり考えて前のめりになっている。欲望はもちろん大事だとは思う。だって欲望がなくなれば人は餓死してしまうのだから。でも、まるで欲望が自分にとっての主人であるかのような生き方には賛同することができない。わたしは欲望の奴隷でありたくはない。むしろ、欲望の主人としてその自分自身の欲望をコントロールしたいと思うんだ。
 何が大事なことなのか。何が本質なのか。やはり、このブログでも何度も書いている通り、今を生きることなんじゃないかと思う。となれば、そのための方法というかツールとして瞑想だったりヨガがちゃんとある。なんて偉そうなことを書いているわたしだけれど、そのわたし自身が今を本当に生きることができているかどうかと言えば、まだまだ中途半端でまだまだ不完全だ。でも、その方向性で進んでいこうとそのことをわきまえているだけでも違うと思う。大きく違うと思う。
 10代後半から20代半ばまでわたしは長いスクリーンタイムと共に人生を過ごしてきた。テレビやパソコン漬けだったと言ってもいいだろう。でも、今思うのはその膨大なスクリーンタイムで何を得たかと聞かれれば、あの時間は無駄だったとしか言えないということだ。もしもわたしがあの頃に戻ってやり直せるのだとしたら、テレビやパソコンなんかに多くの時間を使ったりしないで、本を読んだり、料理を作ったり、ヨガをやったり、執筆をしたり、たくさん歩いたりしたいと思う。そう、今わたしがやっているようなことをあの頃に戻っても同じようにやりたい(ということは今のわたしは結構思い通りに人生を送れているのかも)。
 この文章を読んでくださっている方で、「そうは言われてもなぁ」と思う方はまずは一日につき30分とか1時間くらいスマホをお休みにしてその時間で何か好きなことをしてみてほしい。大学の先生の齋藤孝さんは読書を、それも名著と呼ばれるようないい本をそのネットを削った時間で読んでみたらどうか、と提案している。わたしも同感だ。まずはできることから少しずつ。そのちょとずつも大きな変化への歩みなのだから、まずはちょっとやってみてほしい。あるいはわたしが勘違いしていたように、スマホは電車の中だけにするっていうのもいい案かもしれませんよ(笑)。ってそれが言いたかったんかい!!



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