教会の聖書研究会(教会で行われる信仰を深めていくための勉強会)、行ってきましたよ。というわけで、今日学んだことの中からこれはと思うものを手短に紹介していきますね。
牧師が祈りについて教えてくれたこと。それは自分が空っぽになるまで祈るということ。わたしもそうなんだけど、たいてい神様に遠慮して自分の思っていることとか考えていることの半分も神様に伝えないのがふつうだと思う。でも、そうではなくて祈るのであれば、祈って祈って祈りまくって、自分の言いたいこと、不満、モヤモヤなどを全部神様にぶつけるんだ。で、もう、これでもか、これでもかってくらい祈るとスッキリする。もうこの時には自分の中のものは全部吐き出しているから空の空の空っぽになっているはず。こうなれば、自然とそこには光や風が入ってくる(牧師談)。中途半端に祈るのではなくて徹底的に祈る。それも自分がもう空っぽになるまで。
たしかに牧師の言うことはもっともで、どんなに絶望のどん底だったり、怒り狂ったりしていても、言いたいことを言いたいだけ制限なんかつくらず言い続けたらそりゃあ最後には言う言葉がなくなるよ。出尽くした。出し尽くしたってなってね。祈るならそこまで祈ろう。欲求不満が残らないくらいにまで祈ろう、ということなのだ。
で、それから牧師によると本当に祈っている人というのは2時間も3時間も祈るものらしい。ってそこまで祈ったことないんですけど、と思っていたら彼らは自分のためではなくて他の人のために祈っているらしいのだ。そうか、それだったら分かるよ。自分のことを祈ってもだいたい30分くらいで祈ることなくなるよね。牧師から祈りのやり方を教わったようでとてもこの話もためになった。
キリスト教的なメンタル調整法(って言っちゃっていいのかなぁ?)は空っぽになるまで祈ることだと分かりわたしもやってみたいと思った。もちろん、世の中にはヨガやアーユルヴェーダ的な考え方や心理療法や運動やリラクゼーション法などいろいろな手法がある。どれが一番優れているかと比べるのもいいかもしれないけれど、この空っぽになるまで祈るというのはこの2000年あまりのキリスト教の歴史において先輩クリスチャンたちが絶えず実践してきた方法だから説得力がある。彼らはこの「空っぽになるまで祈る」を実践してありとあらゆる困難や苦難や逆境などを乗り越えてきたことだろう。
この空っぽになるまで祈るというのは、アーユルヴェーダの考え方とも通じるところがある。アーユルヴェーダでは、食事を摂る際には完全に消化されてから次の食事を摂ることをすすめる。それは空っぽにならなければ栄養がよく吸収されないからであって、いっぱいになっている状態では消化できなかったものが未消化物になりゆくゆくは毒素になってしまうからだ。またヨガにしても瞑想にしてもとにかくリセットしてまずはゼロにする。そうしてきれいな空っぽの状態にしてから新たな気分で日常生活へとまた戻っていくのだ。
キリスト教の祈りとヨガや瞑想は異なるもの。でも、要はゼロにすることが大事。そうすることによって、食事にしろ、知識にしろ、神様からの恵みにしろ、受け入れるだけのスペースができる。
と30分が経ちタイマーが鳴りました。まだ書いていたいけれど時間なので終わりま~す。ではでは、またね。

変な人。
普通ではないと思う。
わたしが思っていることを言うとみんなひく。
そして、目の前にシャッターを下ろされて、
まさに閉店ガラガラ~。
わたしは気が付くと蚊帳の外。
なぜなら、今、大人気の
カヤノソトボーイズの2期生の瞑想担当だから。
最近、瞑想してないけど。でも、瞑想担当なんで。
そう、なんか浮いてるの。
この世界、日本という社会から。
わたしは何だかんだ生きづらい人生を送ってきた。
「もっと苦しくてつらい人はいっぱいいる。
お前のは大したことないだろ」、と言うやついるけれど、
苦しさ、大変さ、生きづらさはその人が感じていること。
その人の苦しさを分かっているのはその人だけ。
気が付いたら職歴ゼロ、社会経験ゼロの立派なメンヘラのおじさん。
わたしはしゃべんないほうがいいと思う。
しゃべるとその見た目にあまりにもギャップがありすぎるから。
わたしが自分のことを語れば語るほど、
女の人はがっかりします。失望さえします。
でも、いいじゃないの。
普通じゃないのがわたしなんだから。
わたしは風になりたい。
風になってただ吹いていたい。
【属性】
男。大学中退。吃音。統合失調症。精神障害者。希死念慮あり。現実感の喪失。無職。プロテスタントのクリスチャン。ヨギー。スターシード。英検3級。茶髪。HSPとASDの可能性あり。細身筋肉質。
