粗探し

いろいろエッセイ
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 人間とは探し続ける存在だと思う。真理を? 理想を? 希望を? たしかにそれもそうなのだけれど、粗(あら)をである。
 人はことあるごとに粗探しをしてしまう存在なのだと思う。わたしも油断すると、ついつい良くないところ、改善すべき点などを、つまりは粗を探してしまうのだ。
 で、粗を探してどうするかと言えば、不平不満を言うのである。ここが気に入らない。あれが気に入らない。もっとこうしてくれ。
 たしかに物事を良くしていくためには粗を探すことに意義がある場合もある。現状に満足していては、進歩や向上はないからだ。しかし、それが当たり前のことになってしまうとどうなるか。途端に、人生はつまらないものになってしまう。喜びがなくなってしまって、感謝する心もどこかへ行ってしまって、まさに不満合戦。
 今年の2月の終わり頃に亡くなった祖母がまさにそんな人だった。最期は感謝の人になって、別人のようになって天国へと旅立って行ったことはこのブログにも書いたけれど、そうなるまでは本当にひどかった。故人をけなすのは良くないと重々承知の上でだが、それはまぁ何とも粗探しをする人だったのだ。彼女にかかればどんなに嬉しいことや楽しいことも大したことではなくなってしまうし、普通なら気付かないちょっとしたことも不平不満の大合唱のもととなってしまうのだった。だから、祖母と一緒にいると楽しくない。いつも口にするのは、不平不満と誰かの悪口。祖母はそうしたものから出来ていると言っても過言ではないような、そんな人だったのだ。粗探しの達人と言ってもいい祖母。そんなわけで彼女は毎日ひたすら粗を探して見つけて文句を言う、を繰り返していた。
 そこまでは行かなくても、それに近い人を時折見かけることがある。そうすると、何だか気の毒に思えてきて仕方がないのだ。この人はおそらく満足するとか、足るということをほとんど感じることができずに人生を終えていくのだろうなと思うと、他人のことながらも不憫に思ってしまう。
 粗探しをする人というのは、別の言い方をすれば、満足できない人とも言えるだろうと思う。どんな状況になっても決して満足することができなくて、粗を探すことをやめられないからだ。
 と言いつつも、それならどうしてわたしの祖母は粗探しをする人を卒業することができたのか。それは文句を言うことができないくらいの好待遇を受けることができたからだろう。そして、それらを通して家族の愛を感じることができたからではないかと思う。祖母は輸血のための通院ができる施設でなければならなかった。だから、結構いい施設に入ったのだ。祖母の今までの生活レベルからしたら、まるでホテル暮らしのような、そんな夢のような生活をわたしと母はさせてあげたのだ。もうそうなったら、あの不平不満をグチグチ言う祖母も人が変わってしまう。「こんないい所にいてもいいのかしら」と自分の妹に言っていたくらいだから、それはそれは夢のようだったことだろう。わたしと母は二人で協力して祖母のために一肌脱いだのだ。今思うと、いいことをしてあげられたなってしみじみ懐かしいよ。
 でも、そこまで物質的に満たされなくても幸せになることはできる。祖母の場合は、という話をしてきたのだけれど、別にそこまでしなくても、してもらえなくても幸せというものは感じられるし、手に入れることができる。その方法は実に簡単なことである。粗探しをやめること。そして、今自分が与えられているものに満足して感謝することである。とてもシンプルじゃないですか。とてもとても単純な、でもなかなか多くの人ができないこと。幸せになりたいのなら粗探しをやめて、感謝すればいい。うむ、真理だと思うな。これは以前、わたしのブログ記事「感謝すれば愚痴は出てこない」に書いたことと同じことなんだな。感謝すれば粗は出てこなくて、その結果幸せになれる。
 粗ではなくて、感謝できることを探す。それがいいと思うな。ともすると粗探しをしがちなわたしたちだけれど、それをやっても幸せにはなれなくて、逆に遠のいてしまう。
 粗探しをすると無数に粗が見つかるように、感謝できることを探しても同じように見つかるだろうと思う。何に視線を向けるかによって、ここまで見える世界が変わってしまうのだからおそろしいものだとさえ言える。不平不満の人で終わるか、それとも感謝の人になって幸せいっぱいで終わるか。どちらにしろ、人生はいつかは終わるのだから、感謝して嬉しい気持ちで心の平安と共に過ごせた方が断然いいんじゃないかって思う。「わたしの人生、全然足りない」と嘆いているのと「わたし、満たされていて満足してる」では雲泥の差がある。わたしもいつも笑顔で心の平安を体現したかのような、教会員のOさんのようになりたい。いつもOさんはわたしに「神様に感謝して委ねることが大切」と何度も何度も言ってくれる。
 わたしの人生は30代になるまではまさに粗探しの人生だった。でも、それをやっていても幸せになれないことが分かったのだ。粗探しではなくて、幸せ探しをするんだ。していくんだ。自分がどれだけ恵まれていて、満たされていて、幸せなことかと自覚していくんだ。住む家もある。ご飯もある。着るものもある。障害はあるけれど、それでも元気に過ごせている。家族もいる。教会の人々とのつながりだってある。そう考えていくと、何という豊かな恵みが自分には与えられているのだろう、って思えてくる。もちろん、足りないことは探そうと思えば無尽蔵に見つけられる。でも、あえてそれをしようとは思わない。それこそ、粗探しなのだから。
 新しい一歩を踏み出そう。粗探しじゃなくて、ね。

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