数じゃないよ

いろいろエッセイ
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 このブログ、1日に500アクセスくらいあって、平均200人くらいの人が読んでくれているものだと思っていた。だから、張り合いがあって、やる気もみなぎっていて誠心誠意執筆にあたれていた。が、どうやら違うらしいのだ。それは正確な数字ではなくて、本当のところはそのアクセスログとは別のログが正しいらしく、それによると、今日などはアクセス数が14しかない。
 わたしはショックを受けた。急にやる気が失せてきた。なぜなのだろう。こんなに毎日頑張っているのにたったの14?、と思ってしまったのだ。
 落胆するわたしに母は「数じゃないよ」と諭してくれる。分かっている。分かっているのだ。けれど、どうにも気持ちが回復しない。
 わたしは自分の文章をたくさんの人に読んでもらいたいと思っている。ともかく、たくさんの人に、である。だが、どうしてたくさんの人に読んでもらいたいと思うのだろうか。いや、そう思ってしまうのだろうか。
 わたしがなりたいのはいわゆる売れっ子の作家だ。1年に何冊も自著を出し、それがすべてベストセラー入りをしている。印税もがっぽがっぽ入ってきてゆとりのある暮らしをしている。そんな姿を夢見ている。
 でも考えてみれば、なぜそうなりたいのだろうか。なりたいからなりたいのさ、と同語反復することはできる。
 なぜ、そうなりたいのだろう。考えてみたことさえなかった。なぜ、か、と自分の本心に耳を傾けてみると、社会的に成功したいから。お金がたくさん欲しいから。いい暮らしがしたいから。
 言うまでもなく、理由は全部欲望と見栄だ。それだけ? もっと本質的な理由はないの?
 なぜたくさんの人に自分の文章を読まれたいと思うのか? もっと言うならどうしてたくさんの人に読まれる必要があるのか、というところまで掘り下げた方がいいんじゃないか。わたしに何か人々に伝えたいことがあるのか。そんなもの、おそらくない。ただ、見栄として、自分の欲望を満足させるためだけに売れたいと思っている。
 自信がなくなってきた。わたしの文章は世の中にほとんど必要とされていないんじゃないか、というもっともな疑いが頭をもたげ出す。わたしの文章なんてほとんど価値がないんじゃないか。
 と当時に作家として成功している面々の先輩たちの顔が浮かんできて恨めしくなる。やはり、わたしは底辺を這いつくばっているしかないのか。上には上がれないのか。
 いかん、いかん。自己否定を始めるのは良くない。作家として成功している人たちというのは文筆業の超エリートで、全作家のうちでもトップに君臨している人たちなんだ。全日本文章うまい人選手権のファイナリストたちなんだ。だから、かなわくても当然なんだ。文章がうますぎて当然なんだ。
 だから、わたしはわたしの味が出せていればそれでいいじゃないか。たとえ、一生かかっても作家にすらなれなかったとしても、わたしの文章はわたしにしか書けない。この下手な部分も案外うまく書けている部分も全部ひっくるめてわたしの文章なんだ。だから、卑下する必要はない。
 たとえるなら、ここに料理を50年間作り続けてきた平凡なおばあさんと三つ星レストランの世界屈指の一流シェフがいるとする。ふたりに料理を作ってもらった。さて、どちらの料理がおいしいかな?
 もっと言うなら、年齢も性別も職業もバラバラのバラエティ豊かな10人が集まって料理を作った。さて、誰の料理が一番おいしいのかな?
 文章って料理に似ていると思う。最後は読む人(料理なら食べる人)の好みなんだ。もちろん、万人ウケするようなものをつくることは、文章でも料理でも可能だ。いわばプロ(一流シェフや一流の作家)と呼ばれる人たちはこのことに長けている。どうすればいいものができるか知っていて、おそらくたくさんの人に高い評価を受けるようなものを作ることができる。
 でも、料理だったら100人中99人がまずいと判定しても、その同意しなかった一人がそれを涙を流しながら食べている、ということがあるかもしれない。「このまずい料理、死んだお袋がよく作ってくれたやつに似ているんだよ」とぽろぽろ泣きながら食べている。だとしたら、その料理が99人にとって食えたものではなかっとしても、あとの1人にとっては最高の絶品料理となるのだ。
 というか、そもそも文章に優劣をつけることなどできないんじゃないか、とも思う。もちろん、文学賞などで受賞者を決めなければならない場合には一応、優劣をつけることにはなるのだが、それも一応そうする、だけの話だ。だから、すべての人が優れていると思う文章なんてないし、逆もまた然りですべての人がダメだと思うような文章もない。だって、果物の柿とりんごを比べてどっちの方がうまいかとか決めるのって不毛でしょ? 柿とりんごではなくて、柿と犬のフンだったらどうなんだ? 柿の方がうまいに決まってるじゃん、と言う人もいるかもしれないが、虫のフンコロガシにとっては犬のフンの方が断然好みだろう。だから、絶対的に優れているとか劣っているというのはないのだ。
 同様に、わたしの文章と一流作家のそれを比べてどちらの方が優れているか、と勝負したらおそらく一流作家の方にたくさんの人が票を断然入れるだろう。でも、全体の1%くらいの人は「星さんの方が断然良かったよ」とわたしの方を選んでくれるんじゃないかって思うし、その期待はあながち非現実的ではないと思う。票数ではたしかにわたしは一流作家にかなわないだろう。でも、文章が優れているかどうか、というのは数ではない。おそらく数が多ければ大抵当たってはいるだろうけれど、それもその多数の意見でしかない。少数派が本質を見抜く場合だってある。それにさきにも書いた通り、わたしと一流作家のそれぞれの文章は言ってみれば、くずれた目玉焼きと完璧な高級フレンチみたいなものだろうから、まぁ、形の悪い目玉焼きの方がいいという人もいることだろうし、両者はそもそも違うものなのだから優劣をつけることはできない。
「数じゃないよ。」たしかに母が言った通りで数ではなかった。数じゃない。わたしにはわたしの持ち味があり、個性があり、それが絶妙な味わいを醸し出しているんだ。だから、劣っているとか卑下したり、落胆する必要はない。わたしはわたし。何だか前向きな気持ちになってきたぞ。母の慧眼に感謝しなくては。

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