のっけから申し上げます。わたしは数日前まで地味でありながらも、悩んでおりました。やはり、男であるからにはイチモツの長さがほしい。長さが必要で、それに達していないわたしはダメな男で、そんな自分には価値がない。太く、長く、たくましく。そうではない自分はダメで、生きていないほうがいい。
え? えっ? のっけ(2回目)から何言ってるの? 下ネタ全開みたいですけど、そういう話なの? いやいや、これはたとえとして申し上げたわけで、実際に、わたくしのイチモツが極端に短いとか細いとか、そういうことではないのです。実際は、本当のところは……、って話がどんどん下ネタの怪しい方向へ行ってしまうと思うので、これくらいにしておきましょう、ね。
先日、わたしは病院のワーカーに相談をしてみた。15年以上のお付き合いになる精神保健福祉士のWさんに相談するのが筋と言えば筋かもしれないけれど、まぁ、彼女はいろいろとわたしが住んでいる地域などの事情があって、福祉サービスとして相談に乗ってもらうことができなくなり、日中のお仕事の時間に事業所に電話をかけるのもどうなのかなぁと思ったので、とりあえず病院のワーカーに相談してみた。
何を相談したのかと言えば、冒頭の自分の男のイチモツの長さに悩んでいることを相談したのではなく(当たり前だろ)、人間関係についてだ。正直、どうも人間関係がうまくいっていなくて悩んでいた。ヨガの道場での人間関係がどうもうまくいかないのだ。何か、わたしだけ浮いていて、蚊帳の外でいつも一人になっているような。そして、誰とも懇意に親しくなれていないような。そんな風に思えて仕方がなかった。
そういうことを病院のワーカーさんに相談したら何て言ったと思う? それがすごく意外な答えでわたしはビックリした。でも、すごくそれが腑に落ちた感じで、「たしかにそうだよなぁ」と納得したのだった。
ワーカーさんは「別にいいんじゃないですか」みたいなことを言うのだ。え? それが良くないから、良くないと思っていてどうにかしたいと思っているから、こうして悩んで相談しているんですけど、と普通は思うだろうけれど、そう言ったのだ。
ワーカーさんが言うには、お仕事での人間関係がうまくいっていないとか、人とのコミュニケーションが必要な仕事でそれができなくて困っているようだったら、いろいろと改善していった方がいいかもしれないけれど、別にいわば趣味としてやっているヨガの道場で人間関係がうまくいかなくても問題ないとのことだった。たしかにお仕事だったら困る。職場で村八分状態で、よりひどい場合には、嫌がらせやパワハラを受けていて、本当はもうやめたいくらいなのに、生活していくためには仕事を続けなければならない。あるいは、そこまで深刻な話ではなくても、仕事で上司や同僚との人間関係がうまくいっていなくて、明らかに業務に支障をきたしていて、仕事がうまくできていなくて怒られてばかりいる。そんな感じだったら、人間関係を良くしていく必要があるし、改善していった方がいい。仕事は生活に直結しているのだから、こう考えるのが妥当だろう。
というか、そもそも、わたしはそのヨガの道場の人たちと親しくなりたいとか、彼らから愛されて大事に扱われたいのかと言えば、そうでもないよなぁと病院のワーカーさんと話をしてから思った。まぁ、人から嫌われるよりは好かれた方がいいけれど、特段彼らとプライベートで時間を過ごしたいわけでもないし、友だちになりたいというわけでもない。それにわたしは彼らが現在、どういう生活を送っていて、何について興味関心を持っていて、どういう主義や主張を持っていて、どういう思想であるのかということにも興味がない。だったら別に無理をして距離を縮めて、頑張って八方美人みたいな感じになって、ひたすら周りに愛想を振りまかなくてもいいのではないか。そのヨガの道場でこの人とは親しくなりたいとか、友だちになりたいと思える人がいたら、その人に接近していって友好的な態度を取ればいいだけのことで、そういうことでもなかったら別にドライならドライでもいいような気がしてきた。
特にわたしに対してあからさまにドライで突き放すような態度を取ってくる人は、よくよく考えてみたら、というか考えるまでもなくわたしが興味がない人だった。そのわたしの興味のなさ、無関心な態度がより相手にそういう振る舞いをさせているのかもしれないけれど、向こうだってわたしと特に懇意に親しくなりたいと思っていないのだからそれならそれでいいのだ(わたしと親しくなりたいとその人が思っているなら、わたしの態度にかかわらず関わってコミュニケーションを取ろうとしてくるはず)。
みんなに愛想を振りまいて八方美人的な態度をわたしが取ろうとしてしまうのは、キリスト教がベースにあるからなのだと思う。キリスト教では人を分け隔ててはならないと教えるから、その教えを実践するとそうなる。イエスさまの教えはすごく高尚でレベルが高い。自分が仲良くしたい人にはものすごくていねいに優しくするのに、そうではない人にはものすごくドライで無関心で、ひどい場合には迫害する。そんな、人によってあからさまに態度が違うのはどうなんだ、というすごく厳しい指摘には襟を正される思いがする。
でも、現実には教会の人たちだって人を分け隔てていた。長年、教会生活を送っている人であっても明らかに人によって態度を変えていたし、違っていた。それを完全に平等にする。どんな人にも同じようにする。理想としては分かる。でも、無理だ。というか、それを誰よりも実践して信徒たちの模範とならなければならない牧師が人を分け隔てしていた。いつもその牧師は好きな信徒としか話をしていなかったし、少しでも自分に対して批判的なことを言ったり、ヨイショヨイショと持ち上げて「先生、先生」と尊敬しておだてない人には冷淡ですごくドライだった。また、その信徒が教会内でどのようなポジションにいるかということもしっかりと見ていて付き合い方を変えているようでもあった。だから、教会内でもみんなから尊敬されていて役員をやっているような力がある人にはしっかりと根回しをしていて、自分の現在の牧師としてのポジションが脅かされないようにする反面、下っ端のただの平信徒やみんなから嫌われているような感じの人には特に関わろうとしなかった。
人間関係がうまくいかなくて困っていると病院のワーカーさんにわたしは相談した。言い換えると、わたしはそのことを問題だと思っていた。でも、そもそも問題とは何かと言えば、誰かが困っていてそれをどうにかしたいことだと思って「問題」だと認識した時にそれは問題となる。逆に言えば、まわりの人が問題だと思っていても、その当本人が問題だと思っていなければ、まわりの人にとっては問題であっても、その(迷惑な?)本人にとっては問題ではない。誰も困っていなくて、それを問題だと取り上げる人もいなければそれは問題にはならないし、誰もそのことについて何も考えないし、気が付かない。
以前、スーパーに行った時にこんな店員さんがいた。その人はものすごくせかせかしている感じの人で、ものすごくいろいろなことに気が付く。というか、気が付いてしまう。センサーが鋭くて、ちょっとしたことにも気が付く。そして、そのことを何とかしようとする。そのスーパーはそこそこ大きいところだから、その店員さん以外にも店員がいるのだけれど、そのせかせかしているものすごく気が付く店員さんは他の店員さんたちに自分が気が付いた細かいことを言う。それを見ていたら「この人、かき回してるな」っていう風にしか見えなかった。別にそこまで細かいことに気が付いてそれをどうにかしなくてもいいのに、そのことを他の店員さんにもやるように要求するものだから、他の店員さんの仕事が増えてしまって大変になっている。しかもスピーディーにそれを矢継ぎ早に言ってやることを求めるものだから、まわりまでそわそわ、せかせかして忙しさが加速している感じだった。わたしは客として「そこまでやってくれなくていいのに。そこまでやる必要ないのに」とその様子を見ながら思っていた。
つまり、そのせかせかしているスーパーの店員さんにしろ、ヨガの道場の人間関係がうまくいかないと悩んでいたわたしにしろ、その問題だと思っていたことは問題ではなくて、ただ過剰に反応してしまっていただけではないのかと。何かを問題だと思っていて悩んでいる人に対して「それは気にしすぎじゃないの」と言ってしまうことは一般的には良くないこととされているけれど、何でもかんでも「問題、問題だ」と騒ぎ立てて問題にしてしまうのはそれはそれで大変だと思う。スーパーだったら、店員の数が少なくなりすぎて一人あたりの仕事量が激増して限界を超えている、あるいはそれだけの激務をこなしているのに給料が安すぎる、上司が非人間的だと言ってもいいくらいのパワハラやセクハラを日常的にしている、毎日、決まった同じお客さんが来ては店内を破壊してメチャクチャにして帰るということであれば、明らかに困っている(それも甚だしく)のだからそれは問題とすべきことで解決していかなければならない。また、同じようにわたしのヨガの道場での人間関係がうまくいかないということも、先生や他の生徒さんから嫌がらせやセクハラ、パワハラなどの暴力を受けていたり、集団で無視されているといったレベルなら問題だけれども、現にただ特別に親しい人がいないだけで、一番よく関わっている先生との関係が破綻していたり、決裂しているわけでもなく、それなりにうまく問題なくやれているのだからそもそも問題ではなかったとさえ言えそうだ。
付け加えると問題というのは、人や場所などを含めた状況によって問題であったことが問題でなくなることもある。
たとえば家庭内暴力をする人がいたとしよう。その人は家で家族に暴力をふるう。でも、その人は家族にはするけれども、それ以外の人に対してはしないかもしれない。だとしたら、家族ではない人と暮らしたり、一人で暮らせばいいのではないか。そうすると、ほとんど何もその人自身は変わっていないのに、問題は消えてなくなってしまう。
落ち着きがない人だってそう。学校で授業中に席を立ってウロウロしてしまうことが問題なら、そうしても問題だと怒られないような自由な学校へ移ればいい。
また、「空気が読めない」とまわりから言われて仲間外れにされている人だって、空気が読めない人たちばかりの場ではそれは何も問題にならなくて、逆に空気を読もうとしたり、読めるほうが「何で空気を読むの?」と問題だとみなされる。
となると、絶対的な問題というのはそもそもないのかもしれないという話になってくる。つまり、絶対に問題だという問題はない。まぁ、神様がこれは問題だと言っているということで、これは絶対的な問題だというのはあるかもしれないけれど、それは神様が問題だとしている問題であって神様にとっての問題でしかない。だから、どんなにこの世の中で極悪非道、傍若無人とされていることであっても、それを誰かが困っているからということで問題として取り上げなければそれは問題にはならない。法律にしても、その決まりは、みんなが問題だと思っていて、されると困ることをやらないように、というだけのことでしかなくて、絶対的なものではない。
こういう感じで原理的というか、突き詰めて考えてみると、物事に対してケセラセラ~という感じで「わたしは気にしないの~」という人がストレスが少なくて生きやすくて最強なんだろうなって思う。まわりに迷惑をかけているのにそのことにまったく気が付くわけでもなく、自分の思うがままに好きなようにやっている人は厚かましいし、ウザイと言ってしまえばウザイ。空気を読むとかどうこうといったレベルではなくて、もはや自分が空気を読んでいるかどうかという発想自体がなくて、自分が問題のある人物だということにはまったく気が付いていない。そこまで厚かましくて迷惑極まりないのもどうかと思うけれど、何か最近の人はわたしも含めて神経過敏になっているのではないかと思う。ネット社会、情報社会で監視社会のようにすらなりつつある今の日本だから、そうなるのは当然とも言える。さらに毎日のように長時間、スマホなどのスクリーンをひたすら見ていることによって、神経はひたすら興奮して息は浅く早くなり、過敏になって高ぶっている。だから、本当にささいなことを次々に問題にしてしまって、抱えきれないほどの問題に押しつぶされそうになる。
病院のワーカーさんが言いたかったことをまとめると「それは本当にあなたにとって問題なの?」「そのことで本当にあなたは困っているの?」ということではなかったかと思う。そして、「ヨガの道場の人たちが一般社会から見ても、すごいできる人たちだからわたしは相手にしてもらえないのではないか」とわたしがそのワーカーさんにこぼすと「すごい人なんて一握りしかいませんから、ぼちぼちそれなりに問題なくやれていればいいんですよ」と言い、さらに「その場所が合わないなと思ったら別の場所へ行ってみるのもいいと思いますよ」とアドバイスしてくれた。
結論。気にしすぎてました。もっと適当に流してやっていきます。以上。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。