必要とされないということ

いろいろエッセイ
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 わたしのブログは必要とされていないのではないか。ただ、わたしがほとんど誰からも求められてもいないのに、ただただくだらない無駄なおしゃべりをしているだけ。
 求められないのってつらいっすよ。こっちはやる気があっても、「いいから」「必要ないから」みたいに突っぱねられている、そんなわたしのブログ。
 みんなは何がほしいのだろう? 何を求めていて何を手に入れたいと思っているのだろう? そんなことを一切、いやほとんど考えないで「書きたいから書くのさ。何か文句ある?」に近いスタンスで書き散らしてきた。だから、見放されて求められなくて必要とされない。
 この状況をお店でたとえるなら、たくさんお料理を作ってはみたものの、ほとんどお客さんが来なくて大量に売れ残ったみたいな感じだろうか。
 なんて中身のないことをぐだぐだ、ダラダラ書いているから、「これ要らないや」と捨てられて見切りをつけられて愛想を尽かされるのだろう。
 どんなにわたしが文章を書いてもそれがほとんど読まれずに死んでいるなら、それを書いた意味はあるのだろうか? ないのかもしれないし、あるのかもしれない。
 無職で無資格で高卒でしかない精神障害者の40歳のおっさんがどんなに吠えようが世間は見向きもしない。こうしてわたしが心血注いで書き上げた文章、このブログの記事たちはほぼ誰にも読まれることなくネットという広大な世界の中で埋もれ続ける運命にあるわけだ。
 でも、今ふとそれならそれでいいじゃないかという気がしてきた。なぜなら、この世界は諸行無常で国破れて山河ありでしかないのだから。どんなに繁栄して栄えてもいつかは滅びるのだ。このいつかは廃れて滅びるというのはどんなに頑張っても避けることはできない。どんなにお金を持っていても、どんなに美しい肉体を持ち人々を魅了しようとも、どんなに頭脳明晰で天才であっても、それは永遠には続かない。
 そんなことを書いた直後で明らかに矛盾しているのだけれど、今日初めて美容院というやつに行ってきたのだ。床屋ではなくて美容院。床屋と違って、顔そりもヒゲそりもしてくれない。おまけにシャンプー無しなのに、それでも3千円ほど床屋よりも高いというまさに魔窟(それはオーバーすぎるだろ!)。いやね、血迷ったわけではなくて、魔が差しましてね。というのは冗談で、何か急に格好良くなりたくなってしまって。それくらいお金を出せばすんごく格好良くなるかなって奮発してみたわけです。
 が、床屋と仕上がりがほとんど変わらず(がびーんですな)。さ、3千円も多く払ったのに……。でも、人生はトライ&エラーなのさ、と咄嗟にナイスな言い訳を思いついた。
 どんなに着飾って、格好いい髪型で、格好いい服を来て、鍛え上げた美しい体で美男として街を闊歩してもそれって何なんだろう、という気がしてくる。女の子たちは「格好いい人がいる」と憧れの眼差しを向けることだろう。でも、だからそれが何なんだ? みんなから欲しがられて、「いいなぁ」って求められて、憧れてもらえることは本当にいいことなのか?
 と、その話が、最初でした、わたしのブログの話へと連結してつながる。わたしの文章は魅力がなくてつまらなくて面白くなくて役に立たないからみんなに読んでもらえない。そう、わたしの文章はイケメンではないのだ。格好良くないし、優しくもないし、ただただ自意識過剰で自分のことばかり、ああでもない、こうでもないと騒ぎ続けている。
 わたしは一言、疑問の言葉を発したい。成功って何なんだろう? 何の意味があるのだろう? それは本当に価値があることなの? ってね。
 少し前に、一流の芸能人、日本人にほとんど知られているほど知名度があって、好感度も高くて、とにかく人気者。そんな人たちが次々に自ら命を絶っていった。それから、大物の政治家で要職に就いている人たちはみんな幸せそうな顔をしていない。闘っている顔をしていて、平安なんて遙か彼方のようにしか見えない。果ては命さえも狙われて、片時も平穏ではいられない。
 自殺した一流芸能人、大物政治家などのわたしよりも箔があり、多くの人から必要とされている人たちが幸せかどうかと言えば、そうではないように思えてならない。
 わたしは彼らのようになって力を得て、多くの人に影響力を行使して大きく生きたいのか? ビッグになってでかいことをやりたいのか?
 なんて、いつもおなじようなことを書いておりますわたくしですが、じゃあ、そういったこと以上に価値があるとわたしが信じているものがあるかと言えば、特にないのです。「何だ、ないのかよ」。と同時に何をやっても意味がないような気がする。って、ちょいネガティブモードなのかも。
 それに加えて、わたしが今現実だと思っているこの世界だったりわたし自身や他者などが、誰かが見ている夢でしかないのではと疑心暗鬼に駆られ始めている。荘子も言ったように、わたしは本当はチョウチョなのかもしれない。チョウチョが星大地として人生を送っている長い長い夢を見ているだけ。この夢から目覚めたら、わたしは自分がチョウチョであったことに気付くのだろう。
 あいにく、この現実が夢なのかどうかを確認する方法はない。それは死んでも分からないかもしれないし、分かるのかもしれないということは謎だということだ。この現実というか、自分の意識の外側に出るなんてことは普通に考えればどうやったってできるわけがない。
 けれども、それでもこの平凡な毎日は続いてきたし、おそらくこれからも永遠ではないものの続いていくのだろう。ご飯を食べて、体を動かして、排泄して、寝てをひたすら繰り返しながら。
 わたしの人生も、あなたの人生も、また誰かの人生も、そもそも意味なんてないのかもしれない。いや、最初から意味なんてないから自分でつくるのだ。作り出すのだ、人生の意味というやつをね。人生の意味というものはきっと主観的なものでしかなくて、それでいいはずだし、それ以上のものを求めても得ることはできない。それ以上のものがあるとしたらそれはきっと神様からのもので、人間には主観を超えることはできない。
 人生の意味も目的も価値も、そういったものは多分ない。だから、自分で作るしかない。そして、これが人生の意味、目的、価値だなどと妄信するしかないのだとわたしは思う。それらをそれぞれの人が信じながら、死んでいく。それで良かったのか? それは神のみぞ知ること。なんて言ってしまっていいのか? お前はクリスチャンではなかったのか?

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