腐ってもクリスチャン

キリスト教エッセイ
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 わたしとはおそらく縁がない存在。それは金のかかる女。何か端的に書きすぎて、誰かを呼び捨てにしている感じに近い。失礼だったら謝る。ごめん?
 そんな女性はわたしには近付いてこない。それだったら、もっとお金のありそうな男へと接近するはずだ。
 とにかくそういう女の人は、何をするにしても高価なものを要求する。そして、贅沢をどこまでも求める。
 もちろんわたしにお金が無尽蔵にあって、その女の人を好きなように遊ばせることができるのなら、そういう女の人もいいのかもしれない。きれいな人だろうから。でも、きっとお金がなくなったら捨てられる。お金という魅力がわたしからなくなったら、どんどんいい条件を求めて別の男へと渡り歩いていくと思う。
 わたしはそういう人よりも、お金があってもなくても変わらずにわたしを愛してくれる人のほうがいい。もっと言うなら、わたしが一文無しになっても、重い病気になって何もできなくなっても、変わらずにだ。そういう人が理想なのだ。そして、100円のバナナが値引きで50円で買えて、半分以上傷んでなかったからすごいツイてるね、みたいなやり取りをしたい。金はない。でも、心はある。そんな思いを共有できる人がいい。
 それって、それって今の母とわたしの関係だ! そうか、母のような人を求めているわけか。どうりで。
 そうか、そうか。キリスト教的な「一つのパンを二人で分け合う」というあり方。大事にしていきたい。腐ってもわたしはクリスチャンなんだな。

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