「ブログやめます」だってさ?

いろいろエッセイ
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 最近、ただでさえ少ないこのブログのアクセス数がさらに減ってきた。で、今日の午後4時、本日のアクセス数は0でございます。
 SNSを全部やめたから、ブログとつながっていたものがほとんどなくなって、検索エンジンにとっての重要度が下がった。さらに、最近文字数が極端に少なくなったからそれも影響している模様。
 何ていうか、この星さん.net、700記事は書いているわけですよ。それなのに、それなのに1日のアクセス数が一桁の日が珍しくなくなってきた。やる気がなくなる。もうブログやめようか。やめても誰も困らないし。
 そのことを夕食の時に母と暗い顔で話していたら、別にそれでもいいんじゃないかと開き直れてきた。じゃあ、逆に聞くけれど、このわたしのブログが人気ブログとなって、何百万、何千万の人に読まれるようになったらそれで問題はなくなるの? そんなことはないよね。
 わたしは自分のブログをマクドナルド化しようとしていた。大規模にして多くの人に自分の文章を読んでもらって、それで富や名声を手に入れる。そんなことを考えてしまっていた。でも、仮にそれができたとしてもむなしいのではないか。そんなことを思い始めていた。
 ファンが5人しかいないアイドルと5億人もいるアイドル。どちらがファンを大切にできるだろうか? どちらの方がそのファンの人たちと心を通わせることができるだろうか? それははっきりとしていて、ファンが5人しかいない売れていないアイドルのほうだ。人間は物理的な面でも有限な存在だから、5億人ものファンと交流するなんていうのはできるわけがない。しかも、そのファンが5人しかいないアイドルと同じように5億人と関わってコミュニケーションを取るなんて無理。
 文章にしても1人だけに向けて書いた文章と1億人に向けたそれでは圧倒的にその人のためだけに書いた文章の方が優る。わたしのため、わたしのためだけにこの人は文章をしたためてくれた。それがとても嬉しいはず。
 去年、わたしは長年お世話になっている精神保健福祉士のWさんにお手紙を書いた。彼女のお誕生日の日にそれを記念してというわけなんだけれど、それが長かった。何と6000文字。書くだけでも2時間以上はかかったその手紙。彼女はとても喜んでくれた。それはその2時間余りの時間を彼女のためだけに使ったからでそれだけ思いがこもっていることが伝わる。
 だから、何でも大規模に大きくすればいいというものではない。大きくすればするだけ、その人と人との間のつながりは希薄になってくる。
 わたしのブログの記事をいつも楽しみにしてくれている愛読者が数名しかいないのなら、それほど贅沢な営みはないのではないかと思えてくる。もちろんわたしはこのブログを不特定多数の人たちにに向けて発信している。でも、実質読んでくれている人がわずかなら、まさにここは過疎化の進んだ村人数名の村だと思う。だからこそ、わたしは等身大のわたしでのびのびといられる。親しき仲にも礼儀ありではあるものの、わたし自身かなり自由に制限されずに記事を書くことができている。これがもしも読者が数百万人の人気ブログだったら迂闊なことは書けない(笑)。わたしは迂闊なことは基本書いていないけれど、それでもかなり迂闊に近いことは書けているわけだ。このブログで何を書こうとも炎上なんて起こりはしない。だって常に読んでくれている読者が数名しかいないのだから。炎上しようがない。とは言いつつも、このブログで爆破予告をしたり、脅迫まがいのことをしたりすれば炎上するまでもなく通報されて逮捕される。まぁ、そんなことはするつもりはないから炎上はないと言って差し支えないだろう。
 文章と同じように、いや、それ以上に世のお母さんたちが家族のために作るお料理というものは限られた人たちのためだけにする行いではないかと思う。家族が何人かは知らないけれど、その数人のために腕によりをかけて美味しいお料理を作る。しかも、手間暇、時間をかけて喜んでもらいたいと一生懸命作る。家族、特に娘の○○がハンバーグが好きだからとその娘を喜ばせようとハンバーグを作る。それがどれだけ尊い営みなのか考えてみるまでもない。1時間とかもっとそれ以上に時間をかけて作ったお料理も家族、そしてその娘はペロリと数分で平らげてしまう。でも、それでいい。割に合わないとかそんなことは言わない。喜んでくれればそれでいい。それがたとえ1人であろうがそんなことは気にならないし、気にする必要もないのだ。
 と、わたしのブログは近所にある遺跡くらいの人気があればいいのだとふと頭に浮かんだ。その遺跡、行ってみたらあまりにも人気(ひとけ)がなくて閑散としているものだから、そこの管理人だと言う人にわたしは「ここには毎日何人くらい来ているんですか?」と質問した。そうしたら「7、8人くらいです」と答えてくれた。でも、たとえ1日に7、8人しか人が来なかったとしても年間で少なくとも2500人にもなる。日本でも全国的な有名な遺跡とか大型のテーマパークなんかの入場者数に比べたらまさにスズメの涙だというのは否定できない。というか、それが一体何だと言うのだろう? 何人来たとかそういうことではなくて、その来た人がその場所で満足できたかどうか、もっと言うなら幸せになれたかどうかといったことの方が大切なはず。そうか、わたしは数字に欺かれていたわけか。
最後にこういうことを言うのも何だけれど、遅かれ早かれ、みんな忘れられるのですから大丈夫。どんなに栄えても、あるいは栄えなくて底を這いずり回っていても、どんな人も平等に忘れられる時がそう遠くないうちにやって来る。そう考えるとすべてのことは夢物語のようなものなんだろうな、と思わずにはいられない。あるようでない。ないようである。そんな不確かなものでしかないのだ。
 わたしも芥川龍之介も時間差はあるものの、永遠に人々の記憶に残ることはない。いつかは忘れられる。いつか、必ず。
 それでいいのだ。それで。永遠に人気のある人や物なんて、そんなものはあり得ない。
 幻のようなこの世の中で人は富や名声を求めてしまう。でも、それは海の波のようなものであり、突き詰めれば、その波が起こった後にできる泡(あぶく)のようなものでしかない。
 でも、ここまでブログをやめないみたいなことを書いてきましたけれど、やめたくなったらやめると思います。だから、風任せでいつまでとは言えないけれど、それまではぼちぼち記事を書きたいと思っているところ。人間の肉体もこのブログも有限なもの。だから、永遠ではない。いつブログをやめるか分からないので、そうなってから後悔しないように読めるうちに記事を過去の分も読んでもらえたらと思います。なんて、そんな人はおそらくいないだろうけどね。自虐で自爆。ぐはぁ。

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