中学生の時にふと感じた満たされない気持ち。その正体がやっと今頃になって分かった。それはすべてが過ぎ去ってしまうことへの空しさのようなものだったのだ。
どんなにおいしい食事も、楽しいゲームも、お祭りも、つまり、どんなことにも終わりがある。それがどこか寂しくてそのことに不満のような何か言いしれぬ感情を抱いていた。その時間が楽しければ楽しいほど、それが終わると力が抜けるというか、我に返る感じで「あぁ、終わってしまった」と思う。
中学生のわたしは心のどこかで永遠というものを求めていたのかもしれない。終わることのない、ひたすら続く歓喜の時を。
でも、そんなのはこの世界というか、日々の日常にはないことが分かった。すべては無常で変化して始まりがあれば終わりがある。永遠の至福なんてものはない。
だからこそ、わたしは永遠というものに憧れてキリスト教の洗礼も受けたのだろう。キリスト教を離れた今も、悟って解脱して永遠に安らぎを得られたらいいなぁと思うわけで、結局永遠がほしいっていうことなのだろう。
でも、インド哲学のヴェーダーンタを学び始めて、もしかしたらそんな手に入れようとしなくても、もう既にわたしはその永遠であって、ただそのことに気付いていないだけではないかという気がしてきた。この「気がする」というわたしの直感。ヨガの先生は「すごく大事だよ」って言ってた。気付き始めてる? どうなんだろ?
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。