幸せになることを選ぶということ

いろいろエッセイ
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 昨日がわたし、今日が母、と立て続けに二人とも下痢になった。何でだろう? どうしてだろう? 何が原因なのだろう? そう考えていくとわたしは責任を感じてしまう。
 我が家の料理担当はわたしだから、わたしの作った料理が原因としか考えられないのだ。責任を感じているわたしに母は「昨日、料理に入っていたごぼうを食べ過ぎたから」とわたしに責任がないかのようにフォローしてくれるのだけれど、本当にそうなのだろうかとわたしは疑ってしまう。
 が、原因は分からない。下痢したものを調べててみて、何か悪いものがいないかどうか調べてみなければ正直、何が原因なのかは分からない。だから、原因ははっきりしなくて、おそらく食べた物の何か、どれかが悪かったのだろう、くらいのことしか言えない。
 何だろう。我が家に重苦しい空気が漂っている。わたしも正直、今胃腸の調子があまり良くなくて、しかもヨガをやっていないものだからメンタルがどんよりと下がり気味になってしまっている。胃が何か重くて、さっきからグルグルとお腹は鳴り続けている。お腹が空いたからと消化にいいものをたくさん食べてしまったのがまずかったのだろうか。けれど、痛みはない。おへそのところを押しても痛くはないし、ただ今朝も下痢なだけ。
 何か母もわたしも自分のことで頭がいっぱいになっている感じで、お互いにあまり気遣うことができない。調子が悪い人、体の具合が悪い人というのは、とにもかくにも自分のことで頭がいっぱいになってしまって、周りに明るい世界が広がっているのにそのことが見えなくなってしまうんだ。そんなわけなのか、数日前には快活にこの世の春を謳歌していたかのようなわたしも急に暗いトーンに引きずり込まれているような感じで、重くどんよりとしている。実際、胃腸というのは精神状態に大きく影響するらしくて、胃腸が荒れていたり、調子が悪いとテンションも下がってくるらしいのだ。そうか、それか、と言うまでもなくテンションが下がっている。
 と、こんな我が家の下痢話ばかりしていてもらちが明かないから、何か明るい話をしよう。
 昨日、林英恵『健康になる技術大全』を読んでいたらすごい言葉に出合った。それは「私は幸せになることを選んでいるんだ」という言葉。これは著者の林さんがある世界的な(世界に60カ所もオフィスがあるらしい)外資系企業のイギリス人の社長さんにあまりにもその人がいつもニコニコしていて、多くの人が彼を慕ってまわりに集まっているものだから、その理由をたずねた時の言葉で、わたしはこれを読んだ時、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
 幸せになることを選んでいる。このシンプルな言葉は本質を、核心をついていると思う。そう、自分の感情は自分で選ぶことができるということ。
 同じ環境にいても、ある人は楽しそうに幸せそうにしていて、また別のある人は苦虫を噛み潰したかのようなつまらなそうな顔をしている。たしかにその人が置かれた環境だったり状況だったり起きた出来事なんかがその人の気分に影響を与えているかのように見えないこともない。しかし、そもそも、というかこの世界は結局のところ自分自身が作り出している世界ではないのかとわたしは思うのだ。これは心理療法の認知療法を貫いている考え方とまさに同じで、自分が、この自分がこの世界というか、目の前の物事だったり出来事だったりを解釈して意味を与えて、自分が思うような世界を作り出して認識しているということなんだ。
 たとえば、今あなたが10万円を誰かからポンっとプレゼントされたとしよう。その時、あなたはどう思うだろうか? わたしだったら「嬉しいなぁ」と気分を上気させて喜ぶことだろう。その日はルンルン気分だろう。けれども、その同じ金額を何兆円もの資産を持つ人がもらったらどうだろう? きっと小銭程度にしか思えないだろう。わたしがもらった時のように喜ぶのは難しいのではないかと思う。さらには、それを猫がもらったらどう思うだろうか? 猫はこんな紙切れ10枚にはそもそも興味がないから、渡したとしても踏んづけてどこかへ行ってしまっておしまいになる。はたまた、チューリップにこの10万円をあげたらどうだろう? きっとチューリップは微動だにしないで(当たり前だな)その場で変わらず咲き続けていることだろう(お金もらって喜ぶチューリップとかって想像できないよ)。
 このように目の前の事実をどのように解釈して、それにどのような意味や価値を見出しているか、というのがすべてだとしたら、それを意図的にポジティブな受け止め方にすることによって世界が明るく楽しく幸せに感じられるようになる、ということは言うまでもないことだろう。何も世界を変えろとか、変えなければ絶対に幸せになれないとか、そういうことを言っているのではなくて、世界が同じで変わらないのだとしたら、その同じ世界に、光景に、物事に、出来事にポジティブな意味を与えたほうがお得だということ。状況を変えるのはなかなか難しい。でも受け止め方を変えるだけならそう難しいことではない。だから、受け止め方を変えてみる。それこそが認知療法のあり方のような思想なのであって、東洋の思想なんかとも共鳴する考え方なのだ。
 とは言えども、さきの社長さんの場合には経済的にも社会的にも高いステータスにいるのだからそうしたことが言えるのだろうと思うかもしれない。けれど、その社会的な成功も結局は幸せになることをトコトン選んだ結果なのではないかとわたしは思う。反対に不幸せになることを選ぶのであれば、自分の健康や体を害するものを選び、良くない人間関係を選び、ひたすら破滅することを望むことになる。それがいいのか悪いのか、わたしには分からない。しかし、幸せになることを選ぶのであれば、自分の健康や体をいたわって、明るいすがすがしい人間関係を選び、どこまでも幸せになることを求めていくことになる。それがきっと大規模に大きな広がりとなっていった時に、いい空気が流れて循環して社会的な成功へともつながっていくのだろう。幸せの輪を、流れを、空気をどこまで拡散していき広げていくのか。それが自分の家族にとどまるのであれば、家族のために毎日おいしい三度三度のご飯を作る世界中のそれぞれの家のお母さんになるのだろうし、それが世界的な規模にまで大きくなれば莫大な富を得られる経営者や起業家などになっていく。
 でも、そこまで幸せの輪を大きくして広げなくても、自分自身でできることはある。それは自分が幸せになることを選んでいくこと。自分がいつもニコニコしていて、上機嫌で、人や物事に感謝できるような人であることを自ら選んでいくこと。
 だから、今日の我が家の下痢についても、「下痢をしてしまってつらい」という気持ちはもちろん認めながらも、そこから自分自身が一過性の急性の下痢で済んでいることに感謝していくことができるはずなのだ。世界には衛生環境が悪いがために、きれいな飲み水が得られずに命にかかわるような下痢をして命を落とす人が少なからずいる。また、胃腸をがんやその他の病気などで手術して切り取ってしまっていて、日々満足な食事ができずに、胃腸の不調に悩まされている人だっている。
 今わたしはお腹の調子が悪くて下痢をしている。それは事実。その上で何が大切かと言えば、それをどう受け止めるかということなのだ。下痢をしてしまった。何てツイていないんだろう。面白くない。楽しくない。気持ちが滅入る。最悪。などとひたすら気持ちを下げていき、下を向いてしょんぼりとしているのか、それともこの同じ事実を前向きに受け止めて、さらにはこの程度で済んでいることに感謝さえして、同じ状況を受け止めてやっていくのか。状況は何一つ変わらなくても後の方が目の前の景色がパーっと明るくなっていくのは言うまでもないことだろう。
 生きているといろんなことがある。風邪もひくし、下痢にだってなるし、怪我もすれば、落ち込むことだってある。その度に、今自分は幸せになることを選んでいるのだろうか、と自問自答してみる。そうしたら、何か向こうから新しい風が吹いてくるのではないか。停滞しているこの空気、閉め切って淀んでいるこの空気をリフレッシュさせてくれるかのような新しい風が。
 もちろんこの道以外にも幸せや不幸を超越した、それらに煩わされない静かな境地を選んでいく、という道もあるにはある。でも、それは本当の上級者向けの道。まず、わたしは精神的な不調をなくしていきたいから幸せを選んでいくでいいのかもな、と思いつつあるところだ。でも、最初から悟った境地を目指した方が手っ取り早いのかなぁとも思う。結局どっちなんじゃい? 風の吹くままでいいんじゃないの。でも、自分でその行こうとする方向だったり道なんかは選んでいきたいと思っていますけどね。以上、いい話でした(自分でいい話とか言うなぁ!!)。

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