行き当たりばったりの出たとこ勝負で行きますか

いろいろエッセイ
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 ヨガを習いに行くために街へ行くと、いろいろな人の様子が目に入ってくる。みんなそれぞれ、その人その人の生き方をしていて、個性的でユニークで面白い。当たり前のことだけれど同じ人というのはいなくて、みんな世界に一人だけのオンリーワン。
 人は生まれて、そして生きて、死んでいく。それだけと言ってしまえばそれだけなのかもしれないけれど、それをどんな風にしたいのか。どんな風に生きて死んでいきたいのか。すべての人生哲学はその一点にのみ集約されるのではないかと思うし、それだけだとわたしは思う。
 自分が生まれてくること。そして、死ぬこと。その生まれてくる時と死ぬ時というのは、普通にやっている限り自分ではコントロールできない。だから、最もコントロールできるのがどう生きるのか、の部分。どう生きるかはある程度自分で変えることができる。
 どう生きたいか、か。自分に照らして考えてみると、わたしの場合、概ね今の状況に満足しているかな、と思う。でも、欲を言えば、お金がなくて生活がカツカツだからもう少し余裕が欲しいということと、パートナーがいたらいいなぁという気持ちが少々。それと社会的な地位もあったらいいなぁ、と。と言いながらも、それが本当に欲しいのか。喉から手が出るほど欲しいのか、と訊かれるとどうしても、というわけでもない。まぁ、ないものねだりなのかもしれない、単に。
 たしかにこうあったらいいなぁ、いいのになぁというのは一応ありながらも、逆にこうはなりたくないなぁというあり方を考えてその真逆を行けば、それがなりたいあり方なんじゃないかと考えることもできそうだ。
 わたしがなりたくない人のイメージ。何でもお金で解決できて買うことができるかのように思っている人。どんな女も金を積めば落とせるとか、この世の中は金が物を言うのであってそれ以外は信用できないとか、金がないととにかく不幸な人生しかないと決めつけたりとか、どんな人の行為もすべてお金に換算できるとか、だから、金にならないことはやるだけ無駄なだけの徒労でしかなくて、その典型例として障害者や低所得者は社会のお荷物でしかないから彼らを養うための費用は無駄だとか、とにかく拝金第一主義に浸かっている人にはわたしはなりたくない。
 となれば、その、真逆を行くわけだ。お金は大事だけれどそれがすべてではないとしっかりと分かっている人。そんな人でありたいとわたしは思うようだ。換金できない価値があり、それは本当に尊い。そのことを分かっている人でありたいのだ。
 たとえば、命はお金では買えない。わたしの命も、あなたの命も、誰かの命も同じでお金では買えない。が、人はどうしてもそこに経済的価値のようなものを見出したくなってしまって、昔流行ったテレビ番組の何でも鑑定団のごとく「オープン・ザ・プライス」のかけ声で一、十、百、千、万と値段がつくかのように思ってしまう。命はお金では買えないけれど、かなりの程度はその命のまわりの生活環境などを整えることによってどうとでもなるのではないか。そんな風に考えてしまう。でも、それは命を長持ちさせることができるだけのことで、死ぬことから人を逃れさせるものではない。どんなにお金を持っていようが、もっと言えば国家予算の規模のお金を持っていようが、死ぬ時にはその人は死ぬ。それを不老不死にすることはやはりできない。が、お金を神様にしている人は、お金があれば人を殺すことだってたやすいし、人を買うようなことだってできる。それなのにお金で命を買えない、などと言うのかと反論してくることだろう。が、わたしは言う。命はお金では買えない。命には値段はつけられない、と。
 しかし、この社会を生きていると、金がすべてであるかのような気持ちになってくるから始末が悪い。「何だかんだ言っても最後は金でしょう」と決め台詞か何かのように言う。たしかに金は大事だし、金は人の心理に大きな影響を与える。でも、それがすべてではない。
 要するにわたしはお金を拝みたくない。お金の力は認めるけれども、それがすべてではないと弁えていたい。つまりは、そういうことのようだ。
 で、どうなりたいのだろう、わたしはどうなりたいのだろう、と自分に問うてみるなら、特にないのかもしれない。じゃあ、何でヨガをやっているの、となるのは必死なんだけれど、自分でもよく分からない。たしかにヨガを本格的に習うようになって、心身ともに丈夫になり強くたくましくなった。でも、何のために強くなるのかというのが今一つ判然としない。わたしは輪廻転生があるインド哲学的なあり方をまだ信じ切ることができていない。キリスト教的な天国と地獄の世界観か、それともインド的な輪廻の世界観なのか、自分でも決めかねている(輪廻の方に傾きつつはあるけれど)。
 どうせ死ぬ。どうせ死ぬのに、死んでなくなるだけなのに何でこの人生を充実させようとするのだろう、と考え始めるとすべてが無駄な営みのように思えなくもない。けれど、だからもう後は好き放題やればいい、みたいに考えられるだけの思い切りなんてわたしにはない。結局、わたしは人生を何かに賭けることができていないのだろう。とは言えども、わたしは以前はキリスト教に賭けていた。賭け切っていた。でも、それが100%絶対確実にそうなるかと問われれば「そうだ」とは言い切れない。何というか、曖昧な自分自身が出てきたようで、どうも優柔不断だったりする。今のわたしは分からないなら分からないでいいじゃん。なるようになるだけなんだからさ、と案外無責任なことを思っている。
 あっ、そうか。何かのためにヨガをやるのではなくて、ヨガをやること自体が手段であり同時に目的でもあるんだ。ヨガをやるためにヨガをやる。あるいは結局はこれもそれが目的となってしまうのだけれど、神様に捧げるためにヨガをやるんだ、とか。
 結局、自分の人生が誰のためにあるのか、っていうことなのだろう。自分のためなのか。誰かのためなのか。あるいは神様のためなのか。わたしは今そのことについて決めかねている。だから、ビシっと定まらないんだ。ブレブレで今一つ、照準が一点に定まらないんだ。
 人生を自分のために生きるのなら、自分がやりたいことをただひたすらやっていればいいだろう。何しろ自分のために人生があるのだから当たり前のことだ。が、誰かのためだったり、神様のために生きるとするとガラリと生き方が変わってくる。自分の意思もあるものの、それでもそれ以上に誰かや神様を喜ばせるようなことをする。そういったことへとシフトしていくのだ。
 となれば、最終的には自分がどうしたいかというところへとたどり着く。自分のために人生を生きたいのか。誰かや神様のために生きたいのか、といった大きな分岐点の前に立つことになる。でも、どんなに神様や誰かがこれをやれとかあれをしろ、などと言ってきてもそれを拒否することはできる。だから、結局最後には自分で決めるしかない。どう生きたいのか、どう生きていくのか、と。
 という風に考えてみたら、何だかすごく自分のやりたい方向が見えてきた。インド哲学を勉強してヨガをやって、それからお料理にも力を入れたい。そんな感じでいい。というか、わたしはそんな感じでしか生きられない。今から急に医者にでもなって貧しい国や戦争をしている国に出向いて人助けをするなんていうことはできないし、そもそもフルタイムで働くなんていうことも無理。というわけで、とりあえずやっていきますか。自分の信じる道を。ありたいと思う方向へ向かって。そうしてやっていったら、また別の道が見えてくるかもしれないし、それはその時にならなければ分からない。行き当たりばったりの出たとこ勝負で行きますか。頼りない、と思う人もいるかもしれないけれど、状況は刻々と変わっていくのだから、実際に歩きながら、時には走りながらベストを尽くしていくしかない。
 ま、やっていこう。風の吹くままに。

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