こんにちは。
最近、わたしが熱中している、というよりもかなり気持ちを持って行かれていることについて書きたいと思う。それは舌にできた血豆。ちょっと舌を噛んでしまったりすると、血豆ができる。そして、それがつぶれる。そこからだ。そこから戦闘開始なのだ。ヨガをやるようになって戦わない男になりつつあるわたしであるものの、これが結構痛いわけなのよ。だから、戦うしかない。以上。って端折りすぎて何を言っているか分からないと思うので補足を、と書きつつも何もそんなにこだわるところじゃない。サラっとでいい。サラっとで。って何を言いたいのか、言おうとしているのかのっけから迷子になりつつある。
さて、この血豆。普通に過ごしているとだいたい一週間もすれば自然に治っているもので、そんなに心配するものでもない。が、この一週間がなかなかきついのだ。食事をする時も痛いし、話をする時も痛いし、でひたすら「痛い」「痛い」とわたしは言い続けている。この血豆に何か意味を見出すのであれば「調子ん乗ってんじゃねぇよ」ということなのだろうか。それは神様のみが知ることだけれども、わたしにとってこの血豆は有頂天になることへの戒めとして作用しているような気がしてならない。が、何も人生における血豆の効用などと論文でも書いて、世界中の人々に血豆だって捨てたもんじゃないですよ。血豆をこの機会に見直しましょうよ、などとキャンペーンでも張って、日本血豆学会なるものを立ち上げて、全国の血豆フェチをつのる、などという馬鹿げたことをやりたいわけでもない。わたしはただ、この地味な痛みを通して、自分が有頂天になっていないかと反省し、そして、生きていることの意味を感じたいのだ。何も難しい前人未踏の偉業を達成しようとかそういう話でもないから、まぁ、ぼちぼちでんなってところ? 急に話が尻つぼみでつまらなくなってきた、とお思いの方。わたしの記事に広大さとか大規模とかスケールとか、そういったものは求めても得られませんよ。そういうことではなくて、この地味なありふれた日常からいかに真理を見出して発見するか、そのことに重きを置きたいと思っているのです。いや、何? 急にかっこいいこと言い出したじゃん? いえいえ、物は言いようですから、いくらでもカッコつけることはできるのでご安心を。ただ大便をしているだけでもこの歴史の瞬間に偉大な爪痕を残している、などと言えなくもないのだから、やっぱり物は言いようだったりするわけね。
と血豆について少し語っていて思い出したのが、わたし自身この血豆で痛い思いをするのが今回で5、6回目と、なかなか経験者の域に達してきたということ。2度あることは3度あり、5度あることは6度ある。って何も血豆ごときで経験者だ何だというのはおこがましい話だけれど、我が家には口内炎パッチが常備してある。あとだいたい30枚はあるかな。で、今日口内炎パッチを追加で20枚ほど注文しようとしたらその愛用のパッチが何でも自主回収中とか何とかで買えなかったのだ。実は、この口内炎パッチ、とても気に入っていた。口内炎パッチでお気に入りとかマニアックな話だよなぁとは思うけれど、このパッチはステロイドではない。そして、自然に溶けてなくならない。この2つの条件を満たしたパッチはこれしかないようなのだ! ということはこれが自主回収中ってことは条件を満たさない不本意なパッチで我慢することを意味する。うーん、何たる不便さ。これは重大事件だぞ。って重大か? 非ステロイドで溶けないタイプの口内炎パッチが見つからないことが事件? でもね、これって些細なようで些細じゃないわけですよ。わたし以外にもこの口内炎パッチを常用していて、愛用さえしているユーザー様がいるかもしれないじゃないですか。大正製薬さんには一刻も早く、非ステロイドのタイプの口内炎パッチの販売を再開してほしい。お願いしますだ、大正製薬さん。そうしないと血豆難民が路頭に迷いますから。と思いきや、わたしは今日、そういったことを恨みがましく書きながらもステロイドタイプの口内炎パッチを買ったのだ。買ってしまったというよりは、自発的に買ったという方が近い。なぜなら、ステロイドタイプの方が適切に使えば、治るのが早いらしいからだ。ある医者もこのステロイドタイプを血豆の治療に使うことを薦めていたし、結構このステロイドというやつがスタンダードではあるらしい。が、肝心なことに理科のお勉強が中学校で止まっているわたしにとってステロイドって何ぞやなわけだから、コロナのワクチンの時みたいにさっぱり分からない。ここは勉強してステロイドを理解してから買うかどうか決めた方がいい。って、もうその頃には、痛みも引いて治っているよ。今、今、今。そう今、口内炎パッチがほしいんだ。なんて、わがまま言いまくりなのは重々承知。が、痛い。痛いのだ。誰かどうにかしてくれぇ。
というわけでアマゾンでしっかりと注文させてもらいましたステロイドタイプの口内炎パッチ、効くといいんだけどなぁ。また使ったら感想とか書きますね。って誰も興味なさそうだからやめとくか。それに医療系のことに首を突っ込むと面倒くさそうだし。ぼちぼち効果を確認するに留めましょうか。
痛いのは苦しくて嫌なものではあるものの、生きているがゆえの痛みなんだろうなぁと思うことで、自分自身をふるい立たせましょう。痛いと気持ちをそのことに持って行かれてしまって、何かに集中するのが難しくはなる。でも、死んだらもうこの痛みも味わえない。痛みは生きていることの証であって、わたしに何かを教えようとしてくれている。アシュタンガヨガの伝統でも怪我をネガティブなものとしてとらえない、というユニークな見方さえもある。
痛い。そこに何を見出すのか。見出していこうとするのか。その姿勢によって何かが変わってくるのかもしれない。痛みに意味を見出すのは難しいけれど、何か神様がわたしに教えてくださろうとしているのかもしれない、と思うようにしよう。その方が人生が深くなっていくと思うからね。って別に人生を深くしようが浅くしようがそれは本人の好き好きと言ってしまえなくもない。でも、何かがある。痛みには何かがあるのではないか。ないよ、痛いのは痛いだけで何も意味もクソもありゃせんのさ、ってね。でも、そう考える人がいる中であればあるほど、痛みに何か意味を感じ取る人というのは尊いのではないかとわたしは思う。
少なくとも、今日わたしが感じたこととしては痛みを感じない時に「痛くない、嬉しいなぁ」と思えたということがある。痛みは何気ない普段の日常の輝きに目を向けさせてくれて、それが尊いものだということに気付かせてくれるものなのかもしれない。でも、詳しいことはわたしは神様ではありませんので、真相は存じ上げませんが、痛みを通して痛みがないということが有り難いことだったなということには気付く。
そう、そして、そこからどう進むかだ。それにかかっていて、それ次第だということにも薄々感づき始めているわたしがいたりする。自分のためだけに生きるのか。それとも人や神様のために生きるのか、と。わたしがもしもさらに高みを目指していくのだとしたら、「わたしが、わたしが」とか「これはわたしのもの」などと自意識を肥大させるのではなくて、みんなのことを考えて、神様のことを考えて、自分の物は持ちつつもそれにこだわり続けてしがみつくことなく、自由な心でいる。そんな方向性が考えられるように思う。そうか。最近のわたし(最近だけではなくて、今も昔もそうだと思うのだけれど)に足りなかったもの。それは自分のことや自分の物にばかり目が向かっていて、それだけにしがみついてしまっていたことだったんだ。そういうわけだったのか。
一体いつになったら神様に自分のすべてを明け渡すことができるのやら。ま、でも遠くないいつの日かできることでありましょう。少なくともそのことに気付き始めてはいるんだからね。
そう考えると痛みさえも神様からのギフトだということになる。喜びも悲しみも楽しさも苦しさもすべて神様からの賜物。与えられて、いる? 生かされて、いる? 自分の力で生きてきたような気がしていたけれど、大いなる力に見守られて生かされている? キリスト教の信仰を持つ中で頭では分かっているつもりだったけれど、分かっていなかったこのことに向き合い始める時が来たのかもしれない。自分の手柄、自分の成功、自分の獲得、そして自分の持っている物。ではなくて、それすらも解き放っていく。そこに新しい次元があるのではないか。
痛いのは痛い。痛いから痛い。でも、その痛みさえも神様に明け渡せたら? いやいや、それは上級者がやることでまだまだわたしにはできそうもない。けれど、道筋はぼんやりとではありながらも見えてきた、ような気がする。神様に自分自身を最終的に明け渡す。そのことがわたしの人生のゴールなのかもしれないと思いつつ、この痛みさえも味わっていけたらと。
って、でも痛いのは勘弁を。早くステロイドの口内炎パッチ来ないかなぁ。バッチリ効いてすぐ治してやるのに。と最後に程良くかき混ぜたところでお開きといたしましょう。が、痛い。急に痛くなってきた。痛いよぉ。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。