人が持っているものが良く見えてしまう、という話

いろいろエッセイ
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 夕方に森の公園へお散歩をしに行ってきた。公園に着くやびっくりした。何とテントを立てていた人たちがいて、その屋根の下で何か飲み物を飲んでくつろいでいるのだ。となれば、彼らがどんな人たちなのか俄然気になってしまうのが野次馬根性というもの。
 男2人、女2人。どうやら大学生のグループのようだ。みんな若い感じだし、太ってはいなくて体型もスマート。元気はつらつといった感じで、誰がどこから見ても小規模の大学サークルといった感じだった。
 が、彼らのうちの一人(女性)がその中の男性のことをパパと呼んでいる。いくらなんでも大学生同士でパパとか呼んだりはしない。ということはこの男女は親子、ということらしい。
 意外な展開に驚きながらも、わたしはその人たちが家族連れだと気付く前には、「青春してるなぁ」とうらやましい気持ちに襲われていた。わたしの青春時代は中学校で終わってしまって、それ以降は暗黒の闇の時代が訪れる。その結果、苦しいばかりで精神疾患を発病したこともあり、女性とは縁がないままここまで来てしまった。
 公園に来ていたそのテントの人たちが家族連れだと分かって、今度は自分が何も家庭を築けていないことが寂しくなってきた。わたしは結婚もしていなくて、子どももいない。いや、女性と過去に一度たりとてお付き合いしたことさえないのだ。あぁ、わたしがもし20代の半ばくらいまでに結婚をして家庭を築けて子どもがいたら、その子どもは高校生くらいになっていてお父さんとかパパって呼ばれているんだろうな、と思うと物悲しくなってくるのだ。
 が、冷静に考えてみる。これは無いものねだりなんだと気付く。人は自分が持っていないものをうらやましく思うもので、人が持っているものがやたらと良く見えてしまうのだ。
 一世を風靡したある人気美人女優が昔こんなことを言っていたらしい。「わたしは眠たそうな顔をしていて、顔がガチャピンみたいだからそれがすごくコンプレックスでした。自分の顔が好きではなかったんです」と。たしかに言われてみればポンキッキーズのガチャピンに似ていないこともない。けれど、それは言われてみればの話で誰もそんなガチャピンだの何だのとは気付いていないし、言ってもいなかった。そのテレビで多くの人から愛されていた超人気美人女優でさえもそんなことを言っているくらいなのだから、やはり人間というものは自分の持っていないものをないものねだりしてしまう生き物のようなのだ。
 冒頭のテントを張っていた家族連れをうらやましく思ったとわたしは書いたけれど、もしもわたしが家族を持とうとしていたら今どんな大変なことになっていたかというのは想像に難くない。そう、まず家族を養うために少なくともフルタイムの仕事をしなければならなかったはず。無職とかアルバイトで家庭を持つというのはあまり感心できることではないから、まず仕事に就かなければならない。となれば、今のようなお気楽な生活などは送っていられない。一家の大黒柱か、そこまで行かなくても家族の生計を支えるために毎日お仕事せねばならない。そして、そうなれば自由な時間が激減することも明らかで、呑気にお料理をしたり、読書なんかを平日にしてはいられない。あぁ、そうか何かを得るためには何かを犠牲にしたり失わなければならないわけなんだな。そうだ、そうだ。当たり前のことだけれど、そういうことなんだ。
 わたしが手にしている物。持っているもの。それはそれで尊い。あのパパと呼ばれていた男性は今の家庭を得るために多くを犠牲にしてきたわけなんだ。失って、身を削って初めて得ることができる。パパさん、頑張ってこられたんですね。
 それにわたしは他人の幸せそうな家庭(奥さんと子どもがいる)を見ると羨ましくなるけれど、それが本当にほしいかどうかと言えば疑問だったりもする。ほしいような気もする。でも、どうしても何が何でもほしいとか、そういうわけではない。ただ、他の人が持っているものが良く見えているだけでしかなくて、わたし自身が渇望しているものではない。よくある、他の人が持っていると何だかほしくなる。その程度のものでしかない。
 もしかしたらだけれど、その若い、わたしが大学生と見間違えたパパさんから見たらわたしがとても気楽で気ままで自由でうらやましく見える可能性だってある。それはその本人に聞いてみなければ分からない。ということは結局どんなにいいものを手に入れても無いものねだりはなくならない、ということのようだ。人が持っていると良く見えてほしくなる。あるあるの中でも鉄板なんですな、これって。
 でも、女性とお付き合いしてみるのってどんな感じなんだろう、という好奇心はある。彼氏彼女の、恋人の関係ってどんなもんなんだろうという憧れのようなものはやっぱりある。
 最近、街へ行った時にそうだな。50代、もしかしたら60代と思しきカップルが幸せそうに手をつないで歩いていた。その様子はお互いにその相手がいないと生きていけないという切迫した感じが伝わってきて、さらには彼らの薄くなった髪の毛が「年齢じゃないよ。好きな気持ち、愛し合う気持ちが大事なんだよ」と教えてくれているようだった。何かまるで20代のカップルのような空気がその二人には漂っていてその彼らの見た目とのギャップが甚だしくて、幸せにはいろいろな形があるんだなと実地教育を受けさせてもらっているような気分だった。
 人が持っていて良さそうに見えたからというのも分からなくはないけれど、それは無いものねだりの隣の家の芝生は青い状態。よくよく考えてそれを本当に自分が求めているのかどうか自分自身に真摯に尋ねながらやっていきたいと思う。人が持っているとかみんなが持っているからではなくて、自分がそれを本当にほしいと思っているかどうか。ブレずにやっていけたらと思うわたしなのでした。ちなみにこの調子でやっていったらおそらくパパとか呼ばれることはないだろうな。って蛇足。最後に余計なことを言いました。以上。

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