ヨガをやるのは何のためってやりたいからじゃダメなの?

ヨガ
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 なりたい自分、なりたいわたし。けれど、なったところでそれが何なのか? 一体何になるのか?
 わたしは何でヨガをやっているのだろう? 別にやらなくても生きていけるのにそれでもやっている。何故なんだろう? 謎だ。オイオイ、謎ってそんなんでいいのか? 良くないかもしれないけれど実際そうなんだ。
 最近、わたしはある真理に目覚めた。それは人間死ぬときゃ死ぬのよ、という身も蓋もない真理。そう、人間死ぬのだ。いつかは分からないけれど確実に。
 またもや死の問題に絡め取られそうな嫌な予感がする。けれど、ここで反則技を繰りだそう。そう、人間死んでも魂は生き残って永遠に生き続けるって考えるんだ。そう考えないと、ただ死んでおしまい、The Endで終わってしまう。だったらいかにこの世で私利私欲を尽くして好き放題やるか、ただそれだけとなってしまう。別に人に親切にしたり、社会のためとか誰かのために尽くさなくたっていい。どうせ死ぬのだからね、などと言ってそんな時間の無駄遣いはご辞退させていただきます、とばかりに飲めや食えやの大騒ぎ。とにかく金に物を言わせて好き放題の贅沢三昧のし放題。で、いいわけなんですか?
 とまぁ、啖呵を切ってみたものの、こればっかりは謎だと思う。だって死んでどうなるかなんて誰も分からないのだから。誰も死んでまた蘇ってきた人なんていないんだから。
 わたしは今、節約をして細々と暮らしてやっとの思いで捻出したお金でヨガを贅沢にやっております。でも、思うんだ。何もヨガなんてやらなくたっていいんじゃないかって。
 わたし、何でヨガやってる? 何のためにヨガをやってる? わたしのヨガの師匠ではないまた別のもう一人の師匠はこんなことを教えてくれた。ヨガは神様に捧げるためにやるのだよ、と。まぁ、そうだったら神様というのは実にお金がかかることをやらせるもんだ、などと思ってしまう。
 神様に捧げるため。わたしの人生、わたしの行為、わたしの一挙手一投足、ぜ~んぶ神様への捧げ物で、それを自分の自己実現だ何だのために用いようとするから話がおかしくなる。自分を明け渡す。神様に降伏して服従する。でも、何のために? 何のためにとか問うている段階でわたしのレベルが低いことが露呈してしまうけれど、何のために? でも、何のためにって何のためでなければそもそもいけないの?
 というか、人間はどうせ死ぬのだから何をやっても藻屑になるだけのことで何をやっても無意味で無価値。何かに熱くなるなんてバカバカしいだけなんだよ。などと言いたくなってしまう。でも、それは真実なのだろうか? ヨガの世界ではそうは考えなくて、この世というのは修行の場らしいのだ。で、この今回の人生で悟って輪廻から解放されるのか、それともまだまだ修行が足りないからと来世でまた別の肉体を取って生まれ変わるのか。普通の人はまた来世に生まれてしまう。そして、また人生なのか、犬生なのか、猫生なのか、虫生なのかは分からないけれど、何回も死んでは生まれ、死んでは生まれを繰り返すんだ。
 と、ぐだぐだ書いていたら何となくだけれど、何で自分がヨガをやっているのかが見えてきた。それはやりたいから。やりたいと思うから。って全然答えにも何にもなっていない。でも、それ以上でもそれ以下でもない。何か役に立つからとかそういうわけではない(もちろん体はたくましくなり、メンタルは安定してきていいことずくめではあるのだけれど)。ヨガのポーズができたところでお金はヨガの先生でも何でもないからもらえない。また日常生活で何かヨガのポーズをするわけでもない。だから、使えない身体動作と言ってしまえばそれだけのこと。でも、何かよく分かんないんだけれど、ヨガに惹かれてやりたいと思う。何でだろう? どうしてなんだろう? そんな朝3時に起きて始発の電車に乗ってヨガを習いに行く必要なんてそもそもない。でも、やりたいと思う。やりたいと思ってしまう。何故なのかと理屈で理由を説明しようとすれば、いくつかは理由が挙がってはくるだろう。でも、その頭でこさえた理由だったり理屈と何かズレている。言葉にしてしまうとそういうことなんだろうけれど、こればっかりは言葉にできない。なぜヨガをやるのか? やりたいから。やりたいと思うから。で、いいような気がしてきた。
 わたしのヨガのお師匠さんは以前わたしにこんなことを言ってくれた。それはヨガはシャワーみたいなものだということ。誰もシャワーを浴びて後悔して浴びなければ良かったと思わないように、ヨガもシャワーと同じようにやれば気持ちが良くて後悔しない。だからやる。気持ちがいいから。もしかしたら、もしかしたらだけれど、わたしの場合も師匠と同じなのかもしれない。頭の中では悟るためとか平安を手に入れるためとか、何々のためだともっともらしいことを言うけれど、でも本当に何度も何度も「どうして?」「何で?」と突き詰めると最後には「やりたいからです」とか「やると気持ちがいいからです」「気持ちがいいからやっています」とならざるを得ない。さすが師匠。核心をついている。このお師匠さんの答えを聞いた時、実はわたしは「何だ、悟るためじゃないのかよ」と少し残念な気持ちになっていた。でも、人間は自分にメリットのあることしか基本しない生き物だから、ヨガもそれをやることに何らかのメリットを感じているのだろう。でなかったらやりたいと思わないし、やっていないし、続くわけもない。
 やりたいからヨガをやっている。だから、やりたいと思えなくなった時、わたしはヨガをやめていることだろう。今は、やりたい。時々何か面倒くさく感じる時も正直あるけれど、それでも何かやると気持ちが良くてすがすがしい気分になる。だから、わたしも師匠と同じくヨガというシャワーを毎日のように浴び続けているのだろう。たしかにわたしもヨガをやって後悔したとかそういうことはない。師匠、やっぱり鋭い。
 何のためにやるとかやらないとか頭で理屈をこね上げたとしても、最後はやりたいからやっている。そうとしか言えない。そして、それでいいのだと思う。何もすべての行為に理由は要らないのだから。無理して理由をこしらえなくても、やりたいからでもうそれは立派な理由。わたしはこの文章を書きながらそのことに気付けたように思う。人間、突き詰めると拍子抜けするようなあっけない答えしか浮かばないもの。それでいい。それで。立派な目的とか理由なんて必要ない。ただやりたい。それもものすごくやりたい。それだけで十分。わたしがヨガをやる理由、以上ぉ。

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