欲望について今わたしが思うこと

いろいろエッセイヨガ
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 欲しいものがある。欲望がしっかりとある。欲しいあれこれの物、行きたい場所にやりたいこと、そしてなぜか気になるあの人。でも、それらをすべて手に入れることが幸せなのかどうかと言えば、そうとも言い切れないように思う。淡い思いを残してあえて手に入れようとはしない。そんな身の引き方もあると思うのだ。いや、人生というのはアクティブに、とにかくアグレッシブに行かなければダメだ、な~んて言われても、それは本当なのだろうか、って思ってしまう。欲しいものを全部貪欲に手に入れる人生、というのもそれはそれでありだと思うけれど、何て言うかわたしたちは無駄なものや必要のないものに振り回されてブイブイ言っている。それが手に入らない、苦しい~って不平不満を並べ立てている。
 わたしは今、働いていない。無職だ。だから肩身が狭い。で、欲しいものがあったから働いてみようと思ったら全然いい仕事がない。それもそのはずで無資格の高卒男にいい仕事なんてないのだ。自分の市場価値というものを考えると、今のわたしの市場価値はマイナスだと思う。自分ではほとんど価値を生み出すことができなくて、ただ維持費としての生活費がかかってしまうだけで。でも、何ていうか、それでもいいよって言ってくれる女の人がどこかにいないものだろうか。
 と言いつつもやっぱり欲しいものは欲しかったりする。あの葡萄はすっぱいから、とか何とか言ってみてもやっぱり欲しいのだ。
 わたしの方向性。欲望を充足するか、それとも捨てるか、との狭間で揺れているわたしがいる。なんてことを書いても皆さん、そんなことはどうでもいいことでありましょう。そんなことよりも自分自身の困っている問題をどうにかするための方法だったり知恵がほしい。あなたの無駄話を聞いていたくなんかない。そんな風に辛辣に思う人は少なくないことだろうと思う。
 手に入れたい物、叶えたいこと。そんなものがたくさんあるわけなんだけど、それでもふと太陽を、お天道様を見上げていたら、まぁ、そんなにこだわる必要もないかなって思えてきた。お日様が今日も昇ってくれて、空気がちゃんとあり、呼吸することができる。そして、飢え死にしないだけの食料と安全な水があり、トイレだってしっかりあるし、住む家もあり、着るものだって不足していないんだ。それだけで十分というか、万々歳だ。でも、人間というのは欲張りな存在で、もっともっとと思ってしまう。もっともっと手に入れたいとひたすら求め続けてしまう。それこそが足るを知ることができずに不幸になってしまう始まりであって、手に入らない欲求不満こそ諸悪の根源なのだろうと思う。
 何かが欲しい時というのは胸がうずうずする。ほしい、ほしい、ほしいってうずうずしている。で、それを手に入れると、ふ~って一気に力が抜ける。そしてまた欲しくなる前の状態へと戻って平安が訪れる。
 欲しいと思う気持ち、すなわち欲望をどこまでも削ぎ落としていくと、最後には自分の体しか残らなくなる。無一物になり、何も持っていない状態となる。それでもさらに捨てようとすると自ら命を絶つか、餓死するに任せることになるのだろうと思う。
 欲望。それは生きていたいと思う気持ちや死にたくないという気持ちでもある。だから、欲望をすべて捨てたら命さえも残ってはいない。
 では、何のためにその欲望を捨てるのか? それは悟りたいとか解脱したいなどという欲望を充足するためではないかと思う。要するに最高の平安を得たい。どんなものにも優る落ち着いた穏やかさが欲しい。だから捨てるのだ。捨てることによって逆にそういった平安などを手に入れようとするのだ。
 とここで、疑問が生じる。それは欲望を捨てることに執着してしまっていないか? あるいは別の言い方をすれば悟ったり解脱することにこだわって執着しているのではないか? そんなことをわたしがあるヨガの高名な先生に質問したら、「悟ることにトコトン執着すればいいんじゃないですか。そして、その執着をどこまでもしていった先にそれを手放すという境地が待っていると思いますよ」みたいなことを答えてくれた。きっとどこまでも「悟りたい、悟りたい」と前のめりになって求めていった先に一皮むけてどうでもよくなる、そんな境地が待っているということなのかもしれない。悪い意味でどうでもよくなるのではなくて、いい意味でどうでもよくなる、ということらしいのだ。「夢の中へ」という有名な歌にも「探すのをやめた時、見つかることはよくある話で♪」とあるように、どこまでも探して求めていくと、ある時点でふっともう求めなくなってその求めていること自体がどうでもよくなる、そんな景色があるのだと思う。そんな時にはもう探すのはやめていて、気が付いたら自分がすごい高いレベルにいる、ということになっていそうなのだ。でも、最初は求めていく必要がある。そして、それをどこまでも追い求めていった先に、その続けていった人にしか見えない境地があるのだと思う。
 欲しいと思う。それを手に入れようと求め続ける。その先に待っているもの。それは求め続けた人にしか見えない景色であり境地だ。アシュタンガヨガを続けていった先に、悟りを求めていった先に何が待っているのか。楽しみなような、いやいや時間だけ無駄に使ってしまうだけに終わるような、でも、それはやってみないと分からない。やった先に続けていった先に見える景色。それを求めていきたい。



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