インドのお母さんに触発されて考えたこと

いろいろエッセイ
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 こんにちは。星です。皆さん、元気にしていましたか?
 最近、ブログの更新をしていなかったのは、何だか疲れてしまったんだ。ここしばらく毎日、疾風怒濤の3000~4000文字もの記事を書くようになって、いかんせん疲れてしまった。ということもあるのだけれど、それ以上に何というか、わたし自身ヨガのことばっかり考えていて、そのことで持ちきりだったんだ。
 アシュタンガヨガをやるだぁ、やらないだぁと、うじうじ、うじうじしておりましたけれど、とりあえずその教室へと行ってみることにしようと思いました。ちゃんちゃん。めでたし、めでたしなわけよ。また行ってみましたら、このブログでご報告できたらなぁと思っている次第であります。
 さて、わたしのブログですが、わたしのブログって皆様の何かになっておりますでしょうか? まぁ、暇つぶしにはなっているよな、と言う方もいれば、いや、すごく感銘を受けているよ、なんて嬉しいことを言ってくださる方もいることだろうと思う。
 最近、ある本で読んだ話でこういう話があった。それはインドのお母さんの話。何もわたしにインドにお母さん的な人がいるとか、そういうわけではなくて、インドのお母さん全般の話。まぁ、一般の話ですよ。
 ある人はそのインドのお母さんを批判してこんなことを言ったらしいんだ。「家庭にとじこもって家のことだけをやっているなんてどうかしている。街へ出れば、貧しくて飢えている子どもがいるのに、彼らを助けようとはせずに、ただそんなことは関係ないかのように自分の家族の食事を作り続ける。それってどうなのよ?」
 たしかにもっともと言えばもっともだ。自分のおうちのご飯を作っているくらいなだけでほとんど広い世界を知らず、ただ同じことを進歩もなく延々と繰り返しているだけ。それのどこが偉いんだ? ダメなんじゃないか、ということをその人は言いたいようなのだ。
 でも、その意見に対するまた別の人の反論がわたしにはすごく新鮮で刺激を受けた。その人は言う。「たしかに家で家族の食事を作っているだけなのかもしれない。でも、わたしたちは自分のことしか考えていなくて好き勝手しているだけで誰も幸せにしていないじゃないの。それに比べたらインドのお母さんたちは少なくとも、自分の家族においしい食事を作ることによって彼らをものすごく幸せにしている。それにそうした食事作りを彼女たちは嫌々やっているわけではなくて、本当にやりがいと誇りを持ちながら喜んでやっている。それのどこが問題なの?」と。
 今の日本は男女共同参画社会ということになっていて、女性も社会進出すべきだ。女性に家事などをやらせるのは搾取だ、などと主張する人はもちろんいる。もしかしたらそれが主流なのかもしれないとも思える。でも、家事というのは考えてみれば、ていねいにクオリティーが高いものをやれば、その家に住んで生活している家族が喜ぶし、その家族たちの生活を立派に支えている仕事なのだ。外で働いてお金を稼ぐ。それも社会に影響を与えるような仕事をする。そういった仕事はもちろん影響力という観点から言えば、家で家族の食事を作っている人よりは多くの人へと影響を与えていることにはなるだろう。でも、だからと言って狭い範囲の限られた人たちのためだけに活動することのどこがいけないのか。いや、いけないというか、それがそもそも劣っているとか言えるのか、と言えば言えないような気がしてきたのだ。もちろん、そういった家事をやることにやらされ感があって好きではないとか、外で仕事をしてさらにその上家事をやるなんてたまったものではない、というのはもっともだと思う。でも、だからと言って家事をやることがつまらないとかくだらないとか言うことはできないはずだとわたしは思うのだ。
 影響力の小さいことは意味がない。やるなら影響力が大きい、多くの人たちを幸せにすることを。そうでなければやるだけ時間の無駄。でも、この考え方で行くと、どんな仕事よりも影響力の大きな仕事というのはあるから(上には上があるから)、どこかでこれは影響力の点から言ってそれなりのもので、ここからはダメなものだと線を引かなければならない。でも、その線の正しさなんて誰が決めるの? それを世間様、いわゆる一般常識的な見方だけを採用することはできなくはない。でも、それが正しいという根拠は? みんなが言うから、なんていうのはダメだよ。正しさは多数決じゃないんだから。みんなが「人を殺してもいい」とか、「コンビニからあんぱんを盗んでもいい」とか言えば、それはいいことになるわけ? そんなわけないよね。
 とまぁ、ちょっと脱線しかけましたが、そういうわけでわたしのブログもインドのお母さんみたいな働きじゃないかなぁって思うわけなのです。わたしのブログって人気ブログではないから、新しい記事を書いてもだいたい数人から数十人に読まれる程度で終わるわけですよ。インドのお母さんが家族のために食事を作るよりは、多くの人に影響してはいる。でも、対して影響力という点から言えば、家族の食事作りと大差はない。ベストセラー作家になって何万人、何十万人という人たちを相手に物を書く。それはそれで立派だとは思う。でも、だからと言って、数人とか数十人にしか読んでもらえない文章を書くことに意味がないかと言えば、そういうことはない。これはこれで意味があり、意義がある。わたしはインドのお母さんの生き方からそう思うようになったんだ。触発されたと言ってもいいかもしれない。
 インドのお母さんは今日も家族のために食事を作り続ける。それと同じように、わたしも多くの人には読まれない文章を書き続ける。読んでくれる数少ない人たち(わたしのブログの読者)のために今日も書く。それでいいんじゃないか。
 インドのお母さんたちは日夜、食事を作っているわけだけれど、毎回お礼の言葉とか感謝の言葉だったりをもらえはしないと思う。でも、それでも作り続ける。家族の幸せのために。家族がやっていけるようにするために。ちなみに、インドのお母さんたちの食事作りは毎食毎食作って、作り置きということはしないらしい。インドの伝統医学のアーユルヴェーダ的な発想では、作り置きはダメでまめに作るのがいいことだとされているんだ。だから、食事はいつもフレッシュなものを。できたてのものを。いやぁ、大変ですなぁ。
 わたしが作るお料理、ではなくて書く文章。おいしい、ではなくて何かプラスになるような収穫だったり得ることがありますか? もしそれに「あるよ。いつもいい文章をありがとう」と言ってもらえたら嬉しいな。言ってもらえなかったとしても、ブログのアクセス数を見るとゼロになる日というのはなくて、いつも誰かが読んでくれている。お料理で言うならば必ず食べてくれる人がいる。じゃあ、作りましょう、じゃなくて書きましょう。ただそれだけ。それだけでいいと思う。
 そういうわけで今日も書く。誰かにほっと一息ついてもらうために。



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