明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:34)
アシュタンガヨガのことにしても何にしても、わたしは明日の苦労、明後日の苦労、そのもっと先の苦労を我が身に一身に背負い込んでしまっていた。それは重くて当たり前だ。未来の苦労を全部集めて持ってきたらとてもではないけれどやる気がしなくなるのは当然だろう。
そうではなくて、今日だったら今日という一日の苦労を考えて、悩むとしても今日のことだけを、今日の分だけを思い悩む。決して、明日の苦労、明日の分、それより先のことなどを抱え込もうとはしない。その姿勢こそが身軽な足取りで生きていくために必要なことではないのか。
アシュタンガヨガを最低でも5年、もっと行って10年は続けなければならないと、要するにその予想される5年分の苦労、10年分の苦労を先取りして抱えてしまっていたのだ。本来は、というかそもそもそんな風に考える必要はなかった。ただ、与えられた今日という一日を精一杯、時には思い悩みながらも生きる。そして、一日を生きて終える。それだけでいいはずなのだ。アシュタンガヨガの練習で言うなら、その日の練習をすることだけを考えてその日の分の練習をすればよろしい。何も明日とか明後日のことまで考えてその苦労を先取りする必要はない。明日になったらその日(明日)のことを考えて、明後日になったらまたその日(明後日)のことを考えればいいだけのことなんだ。
これを長距離走でたとえるなら、最初から目的地の遙か彼方を見て「まだこんなにある」と思って気を重くするのか、そうではなくて次の曲がり角とか電信柱とか短い小さな目標までとりあえず進もうとするのか、という違いなのだと思う。
一日という小目標。とりあえず一日やり切れればいい。今日という一日を終えることが出来ればいい。そんな走り方をすれば、長距離走に限らず人生だって深刻に重い気持ちにならずにやっていくことができると思うんだ。
遙か彼方の目標まで一気に到達しようとするから気持ちが折れるのであって、どんなに遠い目的地も一歩一歩の積み重ねだと割り切れれば、とりあえず今できる一歩を踏み出せばいいということが見えてくるし、分かってもくる。それを「あぁ~ダメだ。目的地はこんなに遠いし絶対たどり着けない」と気持ちを滅入らせ萎縮して一歩も歩きだそうとしなければ、目的地までの距離は一歩も縮まらない。それにそう考えてしまうことにメリットは何もない。ただ足並みが鈍って止まってしまうだけで何もいいことはない。それよりはたとえ一歩であっても前に進む。それがどんなに微々たるものであったとしても「あぁ~ダメだ」と言って何も進もうとしないよりは明らかに前進できている。
アシュタンガヨガの練習で言えば、まずはアシュタンガヨガの教室へ行く。そして、とりあえずその日のことだけを考えてアシュタンガに取り組む。それでいいんじゃないかと思うし、それしかないのではないかと思う。それを「あぁ~、週3とか週5で5年とか10年アシュタンガヨガを続けるなんて絶対無理だ」と気を滅入らせてその教室へ行くことさえもしなかったらどちらの方が前進しているかと言えば、それはともかくその教室へと行った方だ。その日の苦労はその日だけでいいというのは、先のことは普通に生きていれば考えてしまうのは当たり前だけれど、そうするよりはとりあえず今日のことだけを考えて今日のことに集中するように、という意味でもあると思う。それこそが聖書の教える生き方ではないだろうか。
何か気持ちが軽くなってきた。一日一日に集中して先の未来の苦労をしょい込まないようにしていけたらと思う。今回はそんな気付きを得ることができた。明るい光が差し込んできてやっていけそうな気がしてきた。良かった。
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エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。