優しい人

キリスト教エッセイ
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 今朝ごみ出しに行ったら、その途中、草取りをしている人がいたから「おはようございます」と挨拶をした。その人は近所に住んでいるおばさんなんだけれど、わたしは近所だというのにその人の名前を知らない。けれど、そのおばさんはわたしと母のことを知っていて、「今日はお母さんと教会へは行かないの?」と聞いてきた。って今日は火曜日だろ、とツッコみたいところだったものの、それは失礼だと思ったので、それは流してとりあえず、そのおばさんがわたしと話をしたいようだったのでしばし立ち話をした。
 そのおばさんはわたしと母のことを知っていると書いたけれど、わたしたちの名字も知らないようでただ顔を知っているだけのことのようだった。でも、何かの時に、そう、あれはかなり前の日曜日、わたしが教会をお休みした日、母だけが教会へと向かっていた。で、その時に道の途中で、そのおばさんから「どこへ行くの?」と聞かれて母は嘘をつくのも何だと思って「教会です」と答えたらしいんだ。だから、そのおばさんはわたしたちが決まって日曜日になると二人揃って教会へ行くということを知っているわけだ。
 と、前置きが長くなった。細かい話になってしまった。でも、ここが話の中心ではないので、ここから、ここからが中心。
 そのおばさんが言うには、わたしたち親子には優しさがあって、何でも言えそうな感じだ、とのこと。で、わたしは「普通にしているだけですけどねぇ」と言った。わたしと母が優しいとか何だとか、今まで考えたことさえなかったからだ。優しい? 優しいのか。まぁ、そう言われて嫌な気はしない。あなたは優しくないですね、とか、もっと人に気配りしてください、などと苦言を呈されることと比べたら最高級のほめ言葉なのだ。が、そのおばさんの話を冷静に聞いていると、何やらわたしたち親子からは普通の人からは感じられない何か違うものを感じる、とのこと。その違うもの。普通ではない優しさ。それが教会というある意味、普通の人が行かない場所へと行っているがゆえの何かなのではないか。おばさんはここまで的確に言わなくて、いや、「何て言ったらいいか分からないんだけれど」と言いつつもそんなことをわたしに伝えたかったようだった。
 当たり前のように今まで親子二人で通っていた教会。でも、その自分たちにとって当たり前の優しさとか柔和さとか謙遜さ、そのキリスト教特有の雰囲気や放っているオーラのようなものは、行っている本人たちにとってはもはや空気のような当たり前のものであって、教会の外にいる人に言われてみなければ分からない、というものなのかもしれない。
 まず、キリスト教というか、教会の人たちは内面から宗教によって満たされているから問題は抱えていながらも、それでもそれらは巧い具合に解消されている。基本、彼らはキリキリ、カリカリなんてしていなくて、率先して人に優しくしようとする。自分の利益になりそうもないことであっても、損得を考えないで倫理的に良いことをしようともするし、何というか内面から優しさがにじみ出ているような、そんな感じがある。まぁ、キリスト教は隣人愛の宗教なのだから、相手をやっつけようとか貶めようとか出し抜こうとか、そういう方向性ではない。そうではなくて、神様とイエスさまの愛に生き、愛に死ぬ。そして、死後には安らかな天国が待っている。だとしたら、相手を攻撃してやっつけようとか思うわけがない(と言いつつもキリスト教が過去を含め、現在においても戦争をしてきたのはイエスさまの精神が歪められたからであって本当にイエスさまの精神で生きるのだとしたら戦争なんか起こるわけがないとわたしは思っている)。もちろん、不平不満や嫉妬心なども神様、イエスさまに感謝することによって浄化されているから争いが起こることもない。
 そのおばさんが言ったことの中で意外だったのは、母だけではなくてわたしのことも優しい人だと評価してくれていた点だった。教会へ行かなくなって久しいんですけど。教会生活から離脱した人間なんですけど、なんてもちろん言わないけれど、教会を去ったわたしでさえもそのおばさんは優しいと言う。きっとわたしの中には、というか芯の部分にはキリスト教がしっかりとしみこんでいるのだろう。たとえ教会へ行かなくなってもその核というか大事な部分はしっかりとキリスト教の色に染まっている、ということなんだろうな。
 この話を母にしたら「そう言ってもらえると嬉しい」と喜んでいた。そうだよな。優しさがある、とか言われたらやっぱり嬉しいよ。
 今回のことを通して思ったのは、自分が当たり前だと思っていることって案外普通だったり当たり前ではないんだな、ということ。キリスト教以外のことでも、わたしがヨガをやっていることや、ヴィーガンとして完全菜食主義をしていることとか、お酒とかコーヒー、お茶を飲まずに砂糖も断っていることとか、意外と自分で普通にやっていることでもすごいことってあるのかもしれない。そう考えると、意外と自分だって捨てたものではないし、一流ではないかもしれないけれどそれでもそれなりに輝いているんだな、という風にも思えてくる。
 話が少し前後するけれど、昨日、駅にも行った。そうしたら、みんなすごい恐い顔をしているんだ。何ていうか、嫉妬と怒りと猜疑心とフラストレーション、さらにその上で相手を拒絶するような視線。そういったものがすごく感じられて何だか怖かった。わたしが世間知らずでのほほんと暮らしているということもあるかもしれないけれど、あそこまで怒ったような顔をしないでもいいんでないの、と言いたくなってしまうそんな人々だったんだ。もしかしたらだけれど、今朝、わたしたち親子のことを優しいとほめてくれたおばさんは、そういう人たちを基準にしてわたしたちのことを優しいと言ってくれたのかもしれないな、と思えてきた。そうだ、きっとそうだ。みんながみんな、わたしたち親子と同じように優しかったら、取り立ててわたしたちが優しいと言うこともないだろう。でも、おそらく大半の普通(というか多くの人たち)とされている人たちはわたしたちよりも不平不満があって嫉妬や怒りがあるということなんだろうな。
 そう考えたらすごくわたしたちが恵まれているような気がしてきた。もちろん、今日に至るまでいろいろあった。ジェットコースターのような上がったり、下がったりを激しくしていたような時期もあった。でも、それらがあったから今の平穏な日々がある。平穏を平穏だと思えるのはやっぱり平穏ではない殺伐とした荒れた状態が過去にあったから。平穏だけだったらそれを平穏だと思うことはおそらくできない。ありがたい。今を平穏だと思えることが。今の平和に感謝できることが。
 みんなが平穏な日々を送れますように。みんなが幸せになれますように。そして、みんなが平安に包まれるといいな。って現実に何か行動しないのかとツッコまれることは言われるまでもなく分かっている。でも、わたしはまず身近なところから平和にしていきたい。何も海外へ行って国際援助をすることだけがすべてではない。わたしが置かれた場所でやれることをやる。それだけでわずかながらも世界は良くなっていくし、いい方向へと向かっていく。
 近所のおばさん(今朝のごみ出しの時に話をした人とは別の人)ですごくいい空気を放ってあたたかい気持ちにしてくれる人がいるんだ。わたしはあそこまでにこやかに人と接することはとてもできないけれど、それでもそのおばさんに近付けたらいいなと思う。あたたかく挨拶をする。それだけでも幸福は連鎖して広がっていく。うーん、まだまだ修行が足りないわたくしです。とは言ってもわたしは優しいとのことだから、この優しさが失われないよう毎日をていねいに生きていけたらと思う。そして、誰かを明るく太陽のようには無理でもお月様のように照らせたらいいな、と思う。漫画家の細川てんてんさんと同じくお月様のようになりたい。そして、うっすら、ぼんやりと誰かを照らすんだ。



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