菜食生活3ヶ月目

菜食
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 もう早いもので今日で7月。4月から始めた菜食もこれでもう3ヶ月目に突入することになる。早いのか、遅いのか。たぶん早い。何を根拠に? 根拠はないけれど早いと思うから早い。全然説明にもなっていないけれど、まぁ、そんなこんなで菜食しております星です。
 菜食にしてみて一番変わったこと。それはガツガツしなくなったこと。物事に粘着質にこだわらなくなったこと。わたしには山ほど執着していることがございます。あれも、これも、どれも、みたいな感じでこだわりがあって手放せないでいる。でも、前よりは何だか手放せるようになってきた。教会のことも本当に考えて考えて苦渋の決断として手放したのだけれど、手放してみて良かったと思っているんだ。おそらく植物のような潔さが魂のレベルでわたしに影響しているのだろうと思う。別にスピリチュアルなことを言うつもりはない。でも、人間は食べたものからできているのだから、食べたものからの霊的な影響を受けていてもおかしくないと思うんだな。あ、でもこれは星の持論ですので聞き流してくださって構いません。牛さんを食べれば牛さんの肉体と魂がその人に影響を与える。同じように、豚さん、鶏さん、お魚さんもその人に限りなく影響を与えると思うんだ。それがわたしの場合は植物さんたちの肉体というか、細胞を取り入れておそらくはその霊的な影響も受けている。よく「お肉を食べる量を減らしたらイライラすることが少なくなりました」という話を聞くけれど、それもおそらくそういうことなんじゃないかと思う。家畜が凶暴なのかどうかは分からないけれど、そのパワーというか力は人を攻撃的にさせるようなんだ。だから、さらにその上を行こうと昔の権力者は猿の脳味噌とか熊を好んで食べたらしい。自分の中の攻撃性というか活動的なエネルギーを取り込むために王様なんかは率先して食べたらしい。他国へ攻めていくのだとしたら菜食ではとてもではないけれど肉体的、精神的にもたないだろう。攻撃性、精神的な熱性、そういったものが権力者には求められたからだ。
 菜食にしてからも嫌な人とか嫌いな人がいなくなったわけではない。なんかな~、と思ってしまう人はいる。でも、何かそういうことにこだわらなくなってきた。言うまでもなく気持ちがいつもスーっと平らで全然怒りに燃えたり、相手をやっつけようとか陥れてやろうとか思わない。その点、菜食にしてから楽になったと思う。道で近所を歩く時に挨拶をわたしはする。そうすると一定数返してくれない人がいる。以前だったらもうそれだけで怒り心頭で「何様なんだ!!」とつかみかかりたいくらいの気持ちになっていた。けれど、今は違う。明らかに違う。「挨拶を返さないのはその人の問題だからそのことで自分が気分を悪くしても時間と労力の無駄」と受け流せるようになった。菜食のおかげなのか、あるいはただ単にわたしが大人になっただけなのか、それは分からない。でも、いらつかなくなった。
 不思議なことに菜食にしてからというもの、昔どうしてあのことであんなにキレたのか思い出せないんだ。その怒りの感覚が思い出せないというか。これはいい意味で重症なのかもしれない。菜食は平和な人間をつくる、ということを肌身を持って実感している星なのです。
 あと、後ろめたい気持ちもなくなった。それは動物をお肉として消費したり、乳製品や卵を食べることによって悪しき慣習に荷担してそれを助長して推進していない、というささやかな満足感があるので精神的にも葛藤が少ないのだ。ただ、強いて言うのであれば、菜食をするにあたって植物を殺してしまっていること。ならびに小さいことのようだけれど小さくないこととして、いろいろな生き物の殺生に胸が痛むことからは解放されていない。そういう意味で自分が生きていることが本当にいいことなのだろうか、という確信は持てていない脆さを抱えているものの、とりあえず生きていたいから植物を食べさせていただいている。自分のやっていることに後ろめたい気持ちがあったり、やましさがあるというのはすごくストレスになる。肉食を続けている人たちは言うまでもなくそれが無自覚のものであったとしても多かれ少なかれ動物を殺しているということに後ろめたい気持ちがあるのではないか、と思う。もう殺すのやめようよ。動物食べなくても生きていけるからさ、とわたしは言いたい。
 ここまでメリットというか、いいことばかりを挙げてきたのだけれど、菜食にしてから少しばかりおやっと思うことがある。それは体にどうもどしんとした、どっかーんとでも形容するかのようなパワーが湧いてこないこと。簡単に言うと今一つ力がわいてこないということ。でも、これは仕方がないものだと割り切っている。わたしは肉食動物のようなタフさと強靱さはそもそも求めていないし必要ないと判断したのだ。だから、これは無いものねだりであって至極当然なこと。ナチュラルになるということはギラギラした感じとは明らかに違うことはお分かりだろう。いや、これは菜食がどうこう言う前に、鉄分やカルシウムなどのミネラルが不足しているだけなのかもしれない。もう少しひじきを食べるようにしてみますか。そして、また考えるようにしよう。
 わたしの願いとしては苦しみの少ない世界になってほしい。苦しみをゼロにすることは不可能だとしても苦しみが少なくなってほしいと思う。人間も動物も苦しまないのが何よりも一番。だからこそ、動物の苦しみをも配慮して減らしていかなければならない。必要のない苦しみを与えない。それが何よりも大切なこと。家畜を殺さなければ生きていけないなら仕方がないとしても、人間は家畜を殺さなくても生きていくことができる。だったらどうしてあえて自分たちの楽しみのためだけに好き放題に扱って好き放題に殺すのだろう。これに対して筋の通った意見というものはないと思う。やっぱり、現状のシステムにこそ問題があり、それによって多くの苦しみが引き起こされているのだ。
 菜食3ヶ月目。まだまだこれからな星。菜食の先に何が待っているのか。いい未来が待っていてくれたら言うことがない。あるヴィーガン(完全菜食主義)の人はこんなことを言ったそうだ。「天国で自分が殺さなかった動物たちが列を作って感謝してくれるに違いない」と。わたしが殺さず救った牛さん、豚さん、鶏さん、お魚さんなどなどがわたしのもとへと駆けつけてくれるのかな? だとしたらきっと天国はより素晴らしい場所になることだろう。でも、わたしは生きるために毎日殺している。命を奪っている。それがどう最後の審判で裁かれるのか? こわいけれど楽しみ。ま、なるようになるでしょ。いいことをすればきっといいことが待っている。だから安心して生きていきたい。
 つづく(菜食生活がそして人生が)。

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