特大ホームラン

いろいろエッセイ
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 何か眠い。食事をしてお腹がいっぱいだというのに、そこへさらにバナナとお豆をかき込んだからだろう。アーユルヴェーダでも西洋医学でもありとあらゆる医学が口を揃えて言うこと。それは腹八分にしておきましょう、ということ。
 眠くなってくるとアクティブに過ごしたくなくなってくる。今のわたしの気分としては何かやるのが面倒くさい。世間の人たちって何であそこまでアクティブに活動することを礼賛するんだろうねぇ。とにかく頑張っている人、努力している人が彼らの大好物で、そんなキラキラしている人をほめたたえる。
 でも、頑張るのも頑張らないのも本人の自由だと思うんだよなぁ。というか、まわりから見てゆるくしか生きていない人だってその人なりには頑張って生きているわけだし、そういう観点から言えば狭い意味で頑張っているとかいないとか、そういうジャッジ自体どうなんだろうとも思う。
 みんなは頑張ることをチヤホヤほめるけれど、ペースを崩さないことだって立派なことだと思う。頑張っているという点からすれば、ペースを保つように頑張っているということになる。
 たとえとしてマラソンを考えてもらえばわかるかと。マラソンで飛ばしまくる人、そういう人は注目されるし、その飛ばしたまま42キロあまりを疾走できればそれはすごいことだろうし、賞賛に値する。でもさぁ、普通の体力しかない人がいきがって最初からバーって飛ばしたら絶対息切れしない? かっこつけたいのは分かるんだけれどそれって結局マラソンという全体からしてみれば、あとの残りの距離をとぼとぼ歩くか、あるいは飛ばしすぎたがゆえにリタイアすることになるわけ。それってどうなんだろう。それってかっこいいんだろうか。ってまだ周りからどう見えるかってことを気にしているわけだけれど、何よりも自分にとってそれってどうなんだろう。そう考えてみると傍目には頑張っているようには見えなくても自分のペースを死守することにもある種の哲学なり美学があるもんじゃないですか、とわたしは言いたくなってくるんだ。そして何気にその人は自分のペースを保ちながらも、状況を見てもう少しいけそうだからペースアップしてもいいかな、とペースをほんの少し上げている、なんてね。
 まわりに格好良く見られたいという気持ちだけで過酷な生活をした挙げ句病気になってしまったとしたらそれってどうなんだろう。それで本人がいいのならそれでもいいのかもしれないけれど、何だかそれって切ないね。その場合、ちやほやした周りにも責任があると思うよ。かっこいい~。素敵~。もっと頑張って~、などと黄色い声援を送った側にももちろん責任はある。
 黄色い声援と言えばテレビに出ているアイドルなんかを見ていると思うんだけれどあれって絶対命削ってるよね。あんなに細身の体型じゃあ長生きできないよ、おそらく。でもいいんだ。チヤホヤされたいから。黄色い声援を浴び続けたいから、ということなんだろう。その快感、注目されてチヤホヤされているという快感が忘れられなくてまさに病みつきになっている。そして、その世界で成功すれば普通に働く以上のお金がザックザック入ってくる。そんなわけでその仕事をやめられない彼らなんだな。
 特段、新しいことを始めず、環境そのものも変えようとせずに同じことをしていたら、それは振り幅の少ない人生にしかならない。ある成功している人は本の中でそんなことを言っていた。でも、特大ホームランを打つことが必ずしもいいかと言えば、そうとも言えないと思う。振り幅の少ない人生も堅実で変化は少ないけれど、それにはそれ特有の持ち味があって意義がある。平凡だっていいじゃないですか。特大ホームランを打てずに三振ばっかりでも、というかまず打席に立とうとすらしなくてもそれはそれでいいような、と考え方が変わってきている星なのです。もちろん、俺は特大ホームランを打つんだ。それを打たないと人生終われないんだ、ということだったらホームランを打つためにまずは打席に立ち、そして虎視眈々とホームランを狙っていけばいいだろう。でもね、「ホームランを打ったんだって。すごいね」などと言われるのが嫌な人だっている。そんなチヤホヤされたくないっていう人だっているんだ。ま、人それぞれなんだということなんでしょうね。
 ちなみに、わたしの人生は平凡に終わりそうな予感がする。と言うよりもこのまま行ったら平凡で終わりだろう。でもなぁ、ホームランを打ちたい。そして一発逆転してやるんだって鼻息を荒くしていた頃もあったんだけれど、ヴィーガン(完全菜食主義)になって肉を完全にやめてから全然闘争心とか野心が起きなくなったんだ。それがいいのか、悪いのか、わたしには分からない。でも、何か人生の軸を成功とは別のところに置き始めるようになってきたっていうことなのかとも思う。成功することが特大ホームランを打つことだとしたら、わたしのやっていることはその球場のまわりのごみ拾いをほんの少しささやかにやっている感じだろうか。ごみを1つか2つ拾ってそれでお終いみたいな。わたしのブログってそのささやかな貢献だと思う。別になくても生きていけるし、その存在は多くの人には知られていない。活動は細々、ちまちまとしていてその輝きは特大ホームランが太陽だとしたら、わたしのは豆電球といったところだろうか。でも、豆電球には豆電球の価値があって働きがちゃんとある。わたしの明かりはささやかで小さなわずかなもの。でも、誰かを照らしてはいる。だったらそれはそれで意義があり良しとすべきなんじゃないか。
 球場のまわりのごみ拾いをごみ拾いをしていると気付かれないくらいにやる。その球場の中では目立ちたがり屋の野球選手がホームランを打っている。ホームランを打った選手は大金をそれによって得ている。が、一方の星さんは手持ち弁当で誰にも感謝されることなく、お金をもらうこともなくちまちまとごみを今日も人に気付かれることもなく拾っている。むしろ交通費や昼食代が発生していて赤字だ(わたしのブログの場合はレンタルサーバー代とドメイン代とインターネットの通信費がかかっている)。
 このまま何かをしなかったら一生、球場のまわりのごみを拾っている人でしかないだろう。ましてや、球場の中でホームランを打つなんてことはどう考えても無理な話だ。でも、それならそれでもいいような気がする。自分のペースを崩さずに人生というマラソンを着実に確実にできていればそれでいい。マラソンで一等賞を取ってチャンピオンになるだけが全てではない。とにかく完走すること。目標は地味で味気ないように見えるかもしれないけれど、この人生というマラソンを自分なりに納得できる形で完走すること。これに尽きる。わたしの場合はね。
 こんな言い訳のような、自己正当化のようなことを書いていたら何だか気持ちが下向きになってきてしまうのは、わたしの心のどこかで成功したいという思いがくすぶっているからなのだろうか。どこかスッキリとしないんだ。成功していない自分、成功できてない自分の傷をなめているような、そんな感じがしてこないこともない。けれど、わたしの夢だった作家もすごく大変そうなんだ。気ままに気の向くままに文章を書いていればそれでいい、というわけでもなさそうなんだ。文章力を磨くには並大抵の訓練ではダメそうだし、作家になったらなったでまた書かないといけないから書くことを中心とした生活が待っている。その血のにじむような努力がそもそもわたしにできるのか。それをしてまでわたしは作家になりたいのか。そこのところがまだ曖昧なままなんだ。そして、わたしは書くことを生業としてそれを中心に据えた生活をしていきたいのだろうか。そこまでして一生懸命書きたいのか、と言われてしまえば答えはすんなりとは出てこない。要するに書くことを仕事するだけの覚悟が自分にあるのか、ということが怪しくて覚束ないのだ。
 わたしが人生の終わりを迎えてあとは棺桶に入るだけ、となった時にわたしは何を思うのだろう。あれをやっておけば良かった。これをやっておけば良かった、と後悔するのだろうか。それともそうした思いはなくすんなりと死を受け入れることができるのだろうか。あ、でも、そのことを想像してみるとやっておきたいことってやっぱりありますよ。すごく下世話なことだけどね。結局それなんかい、みたいなやつが。それさえやっておいたらもう心残りはないかな。人生においてはね。だから案外安上がりな人間なのかもな。それだけ。ただその一点やっていないことがこのままだったら絶対後悔すると思うのです。で、それって何? もう分かるでしょ。言わなくてもさ。
 これからわたしの人生、何が待っているんだろう。楽しみなような、でもこわいような。でも、分からないからこそ面白いんだよね。あらかじめ全部分かってたら何にも面白くないよ。とりあえず星は自分なりに納得のいく形での人生マラソンの完走を目指していきたい所存であります。皆さんも自分なりの、そして何よりも自分らしい走り方で走っていってください。そしてゴールの天国でまた会いましょう。

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