ヨガのDVDを見てひたすらヨガをやり40年!?ってか

いろいろエッセイヨガ
この記事は約6分で読めます。

 足りない。わたしには足りないものがある。それはお金だったり、ヨガの深まり具合だったり、思い付く限りいくつかある。で、その足りないものをどうやったら手に入れることができるかと考え始めた。そうしたら、気持ちが滅入ってきてしまった。
 お金が足りない。ヨガを深めていくためのお金が足りない。だったら働けばいいじゃないの。ないなら手に入れようとすればいい。そうして考えていったら農業をやってみるのもいいんじゃないかと思った。どこか労働者として雇ってくれそうなところを探す。そして、そこで働いて賃金を得る。
 でも、最初のところに戻って考えてみると、振り出しに戻ってみると、果たしてそれは本当に必要なんだろうか、という疑問にぶつかる。ヨガを深める。深めて、人に教えられるようになる。それはヨガをやっている人にとっての憧れではあるのだけれど、それがわたしにとって本当に必要なのか。どうしても手に入れたいことなのか。そんな感じで自問自答をしていったら、誰か他の人に「わたしはヨガのインストラクターをやっています」と誇らしげに語る自分の姿を実現させたいだけなのだと気付かされた。要するに見栄なのだ。世間体とか、自分が人からどう見えるかということを気にしての選択のようだったのだ。
 わたしはヨガが好きだ。こんなに素晴らしいヨガを自分以外のまだヨガをやったことのない人にも広めていきたい、おすすめしていきたいという思いがうっすらとではあるものの芽生えてきている。ヨガのインストラクター。つまり、ヨガの先生。自分がヨガの先生になったらかっこいいだろうなぁ、なんて思ってしまう。でも、本来はヨガというものは自分の見栄を良くするための道具ではない。って、パワーヨガなんかはアメリカのハリウッドのセレブたちなんかがハマって、そこからヨガブームに火がついたから、ヨガが全くもってして見栄とか美しくなりたいとか綺麗になりたい、などといったことと無関係に発展してきたとは言えない。けれど、ヨガの本質はそこではなくて、そこを入り口にして入っていったとしても、ヨガの深い精神性に目覚めていきただのストレッチではないことを思い知らされる。
 わたしはどうなりたいのだろう? わたしはどのようにヨガと関わっていきたいのだろう? もっとレッスン料の高い個人のヨガ教室などへ行けば、1レッスン2000~3000円はかかる。ましてや、1対1のパーソナルトレーニングともなれば、その倍近くかかってしまう。ヨガの世界にしてもこの日本ではお金があった方がないよりは断然有利なのであって、お金をけちっているのだとしたらヨガのDVDを見ながらやっているしかないのだ。と言いつつもDVDの方が断然劣っているとかそういうことを言いたいのではなくて、やはり対面の生の直接の指導というものは尊いのだということを言いたいのだ。
 どこまでやったら満足なのか。ヨガをどこまで深めていければそれで満たされるのか。今のように自宅でDVDを見ながらやっているくらいでいいのか(受講料が安めのヨガ教室には通っているけれど)。
 やはり、わたしは足りないのだろうか。ヨガの深め方も足りないのだろうか。だから、もっとヨガに時間とお金と労力を投入して高めていった方がいいのだろうか。
 でも、ふとそんな上昇志向の追い風に吹きまくられながらも、それが一瞬無風状態となり、「はて?」と考える。ヨガのDVDを見ながら自宅で細々とやっているのは何か悪いことをしているのだろうか。ヨガをやるんだったら少なくともちゃんとレッスン料をたくさん払っていい先生についてしかるべきレッスンを受けなければならないのだろうか、と。別にわたしを含めて誰もが一生ヨガのDVDだけを見てヨガをやっていても悪いことをしているわけではないし、それだって一つのあり方であり姿勢なのだ。対面型の教室での指導を受けた場合と比べればあまり成長はしないかもしれない。でも、それで本人がいいと思っているのであればそれでいいじゃないかとも言える。進歩がない、などと酷評することはたやすい。けれど、本人がそれをどう思っていて、どのように受け止めているかということが大事なのだ。というか、ヨガのレジェンドとかマスターと呼ばれる人とDVDを見てひたすらヨガをやり続けた人。社会は前者をとにかく賞賛して評価するけれど、この両者に優劣があるわけではない(もちろんその人の価値の優劣ね。経済的価値ではなくて、その人自身が持っている価値)。どっちが偉いかと聞かれたら多くの人はその功績をたたえて前者をほめたたえることだろう。でも、DVDを見ながらヨガをやり続けた人だって、ヨガをやめないで続けたのだからそれだけでも偉いと思うし、それはそれで価値があり尊いのだ。
 人はとかく何かを極めた人を賞賛する。その優れた人に敬意を払って、とにかくほめる。でもね、極めた人よりも極めていない、いわば悪く言うなら中途半端な人の方が断然多いし、圧倒的多数なんだ。その極めていない道半ばの人だって決して劣ってはいない。価値として劣ってはいない。マスターとかレジェンドと呼ばれている人と同じくらいそのことを好きで愛しているのであればそれでいいじゃないか。
 極めた人も、そこまでは行っていない人も同様にいつかは生涯を終えて死んでいく。その時に「あぁ、いい人生だったな。ヨガと共に歩んでこれたいい人生だったな」と主観的な幸福を感じることができるのであれば、たとえそれが一度もヨガ教室にさえも行ったことがなくて、ひたすらヨガのDVDと共にヨガをやってきただけであったとしても、それはそれで良かったじゃないか、ということになる。だからこそ、逆にヨガのレジェンドとかマスターなどと人々から絶大な支持を受けて賞賛されていた人が、ないとは思うけれど「わたしの人生はヨガで大成功は収めたけれど決して満足できるものではなかった。生まれ変わったら決してヨガなどやりたいとは思えない」と悲しげに人生の終わりにつぶやくのだとしたら、DVDの人の方が幸せなヨガ人生を送ることができたということになると思う。まぁ、今の話は極端でそういうこと(ヨガのレジェンド、マスターが人生を後悔するなんてこと)はないだろうけれどね。
 とここまで書いてきたけれど、最終的にどこで自分が満足するのか、どこまで深めていきたいのか、という話に落ち着く。歌が好きな人が全員プロの歌手になるわけではないのと同じように、ヨガだってすべてのヨガ愛好家がヨガの先生になるわけではない。自分がどのようにそれと関わっていきたいのか。要するにどこを目的地として目指していきたいのか。そのことに尽きるように思う。歌がプロレベルには到底及ばなくても歌を愛して歌うことを楽しむことはできる。ヨガだって同じ。何も先生になるレベルまで高めなくてもヨガはできるし、楽しめるし、自分自身の道として深めていくことは問題なくできる。どこを目指してやっていくのか。目的はいずこに? ここが肝心要の一番重要なところなんだろうな。
 わたしはヨガのDVDから多くを教えられてきた。ある意味、わたしにとってのヨガの師はDVDなのかもしれない。ケン・ハラクマ先生がヨガの師がDVDでもいいんじゃないか、などと本に書いていたけれど枠に囚われないのであれば、それもありかなって思う。でも、もちろん直の対面でしか得られないものはやっぱりあると思うけれどね。
 自分にとってのヨガの目的地をはっきりとさせて、そこへと向かってゆっくりと歩んでいきたい。もしかしたらだけれど、ヨガ歴(DVDでのヨガ)40年のベテランにわたしは将来なっているのだろうか。ひたすらDVD見てヨガをやり続けましたって言ってね。そうなったらヨガDVD実践者としてレジェンドになってる!? いやはや、それはそれでまた面白いかもな。てへ。

PAGE TOP