わたしはやりたいことをやっている。好きなことや興味関心のあることをやっている。そのことをわたしはやりたいと思っていて、何もそのことを疑うことなくここまでやってきた、はずだった。
しかし、今ふと思う。本当にわたしはこのことをやりたいと思っているのだろうか、と。今、わたしの中で芽生えてきている疑いというのは、自分がやりたいと思ってやってきたことは実はそうではなくて、他の人の意見とか、他の人にどう見えるかとか、そういったことによってやってきたのではないか、ということだ。これはすごくわたしにとって衝撃的でさえある。わたしがやりたいと思ってやってきたことは実はそうではなかったってね。
そ、そ、そんなはずはないだろう。必死にもう一人のわたしが反論する。わたしはわたしとしてやりたいことをやってきたし、何らそのことには疑いを差し挟む余地はない。こんなことをもう一人のわたしは必死に抗弁する。
わたしがやりたいと思ってやってきたことはすべて人に見せるためだった。それも賞賛や賛同や尊敬を勝ち得るために。
そ、そ、それは嘘だ。もう一人のわたしがわたしが吃音(きつおん)なだけにどもりながら必死にそのことを否定する。何が何でもこんな話が本当のことであってはいけない。もしも本当だったとしたらわたしが崩れ去ってしまう。
人の意見に流されてそれを自分の意見だと混同し、そして人に評価されるためにあたかもそれを自分がやりたいからやっているかのように偽装しながらやる。
だとしたら、もしもそれが本当のことだとしたらわたしって腹黒いし、抜け目がないし、ずるくもある。
わたしは本当には何をやりたいのか? 何をやっている時が幸せなのか? 何があれば至福なのか? じーっと自分の内側からの声に耳を澄ませる。すると、何にも声が聞こえてこないのだ。どうやら今までわたしはこれをやらなければならないとか、やるって決めたんだからとか、これくらいやらなければ体裁が悪いからとか、そうした理由から自分に鞭打ってやってきたらしい。
本当に自分がやりたいこと? やりたいと思っていること? 2月某日に死ぬかもしれないと半ば追い詰められ始めた今、わたしの心にそれも嘘偽りのないわたし自身に問うている。
もしも世界中の人々がいなくなってわたし一人だけとなり、神様もおられない世界になっても、わたしはそのことをやりたいと思うだろうか。今までわたしがやってきたことをその状況になってもやるだろうか。もうそうなれば別に格好良くならなくたっていい。体を引き締めて磨きをかけなくたっていい。頭だって悪くなったっていい。認知症になってぼけたっていい。
そこまで束縛するものがなくなった、完全に自由な場所に置かれた時、わたしは一体何をするのだろうか。それでもヨガをやり、アーユルヴェーダ的な生活を送り、料理をし、読書に励むのだろうか。ヘブライ語も引き続き勉強しているのだろうか。
って想定している環境が現実からかけ離れていて、そんなことを考えたところで意味がないよ、などと思われるのも当然かもしれない。でも、もはや誰かによく見られる必要が完全になくなった時、それでもそのことをやり続けるか、やりたいと思うかというのは、要するにその行動を行う動機が純粋であるかどうかを確かめる唯一の方法だとわたしは思うのだ。
自分が何をやっても誰にも影響を与えなくて、誰もそのことを関知しないし、反応も何もない。それでも人は自分のやりたいことをやるのか。
星さんねぇ、あなた、人間の行為に純粋なものを求めすぎだよ。人間はこの世界でひとりぼっちになったら何もやる気が起こらないものなの。この世界の職業っていうのはさ、人に影響を与えて自分を含めた人々の幸福を増進させるためにあるものでしょ。だから、自分一人だけになったら自分が暮らしていくのに必要なものは作るけれどそれ以外のものはもう必要ないわけよ。作家だって読んでくれる人がいるからこそやる気が起こるわけであって、その作家しか世界にいなかったらもう執筆したいなんて思わないよ。誰かに読まれるからこそ文章だって書きたいと思うものなの。世界に自分一人しかいなくて自分が死んだらもう誰もいなくなるような世界で何か書き残そうなんて思える? そんなの無理、無理。星さんは自分に無理難題をふっかけているだけなの。もっと現実的に考えなよ。今、この世界には80億人の人間がいて、自然だってあって、動物もいれば植物だってある。だからあなたはこの世界で一人ぼっちになるなんてことはそもそもないし、ありえない話。そんなありえない状況を想定して、その状況下で今自分がやっていることをやろうと思えないのであれば、この自分がやってきたことは不純な動機によるものだった、なんて言うのは現実的な考えではないよ。それよりも今こうして自分は一人ではないんだから、その状況で何をやっていくか、やっていきたいかっていうことを考えた方がいいと思うけどな。それに他人にウケようとして何かをやるってそんなに悪いこと? 決して悪いことなんかじゃなくて、それってある程度までは必要なことだよ。人の目を意識して体を鍛えて、清潔に保って、おしゃれをする。それってすごく大事なことなんじゃないの。まぁ、それがすべてになってしまって、自分がどう見えるかということしか考えなくなってしまうのは極端なあり方で、行きすぎるのは問題だけど、ある程度まではいいんじゃないの? じゃなかったら不健康で不衛生で何にも自分の身なりを気にしないことになってしまうよ。人の目を気にする。それも過度に、でなかったら人間にとってのある意味本能みたいなものなんだからさ。いいんじゃないの? 人間は社会的な動物だとも言うでしょ。社会性を完全に剥奪しちゃったらもうその人は廃人になるか、孤高の世捨て人とか仙人になってしまうわけよ。だからね、人間には人の目がある程度は必要なの。人からどう見られるかとか、どう思われるかとか、どう評価されるとか、そういうこともある程度は必要なの。星さんがこうありたいっていう理想というか行きすぎた形というのは現実的でないし、そんなことを考えても現に自分以外の人間が大勢いて孤独ではないんだから考えるだけ無意味。そんな世界これから何年待っても絶対来ないし、やって来ないし、実現されることは考えられない。もっと現実的に考えなよ。
この誰だか分からないけれどもそれなりに筋の通ったことを言っている自分のことを「あたい」とでも言いそうなわたしの中の少女はこんなことをわたしに言ってくる。わたしはそれでも反論する。それでもわたしの行為がウケ狙いでないようにしたいのだ。純粋な混じり気のないものにしたいのだ、と。
だからさぁ、そういうのが現実的でないわけ。もっと星さん、現実的に考えなよ。じゃないとナンセンスだよ。
あー、わかった、わかった。うるさいから黙っててくれ。
わたしの中の少女が力説するようにわたしは自分自身に無理難題を突きつけていたのかもしれない。あり得ない想定をしてその中において自分自身の行為の純粋性を確保しようとしていた。やはりこの世界はわたしだけの世界ではなくて、多くの自分以外の人たちや生き物たちによって溢れている。だとしたら、その中でいかに現実的に、現実から遊離せずに地に足を着けて考え行動していくか。そのことがわたし自身に問われている。
人からよく思われたい。尊敬されたい。ほめられたい。認められたい。これらは決して諸悪の根源なんていうものではなくて、人間を駆り立て意欲を起こさせるのに必要なものなんだ。それをいけないことだと断罪して排除しようとするのではなく、程良く依存しすぎない程度に適度にたしなむ。そんなあり方がいいのではないか。それにそういったものが完全にどうでも良くなったらわたしはその時おそらく世捨て人となっているだろうと思う。だから、ほどほどがいいんじゃないか。温泉だって酸性やアルカリ性が極度に傾いて強ければとてもではないけれど体を浸けることはおろか触ることさえできない。でも、ほどほどであればむしろ温泉療法があるように、体を養い元気にしてくれる。ほどほど。わたしが好きな言葉のぼちぼちも極端すぎないことを意味している。わたしは極端な方向に傾いていた。傾きそうになっていた。純粋な混じり気のないそんなやりたいと思うことを求めてしまっていた。そして、現実的ではない状況を想定してしまっていた。これも極端な方向に傾いていたのだ。ほどほどを求めるのであれば、不純すぎる動機の行為は良くないけれど、ほどほどに不純なのは別にそれでいい。むしろ、ほどほどに不純な方が現実的であり、完璧主義とか理想主義に陥っていなくて健全なのだ。
わたしがヨガやアーユルヴェーダをやる理由に不純なモテたいとか格好良く見られたいとかそうした理由が混じっていたとしてもそれはそれでいいのだ。それしかないとなればまたそれはそれで問題だけれど、程良く不純で程良くウケ狙いである分には問題ないのだ。むしろほどほどに不純であることによってそれは現実的であり飾らない正直な態度なのである。読書や勉強も人からよく思われたいとか、すごいと思われたいとか、一目置かれたいとかそういう不純な動機が混じっていてもそれはそれでいいのだ。程良く不純である方がむしろ上等で、そういったものが一切なくて純度100%なんていう方がむしろ危ないのではないかと思うし、現実的ではない。
もしかしたら人間の行為なんていうものはすべて不純なものをそれぞれ程度の差こそあれ含んでいるのかもしれない。逆に、この世には純粋な混じり気が本当にない行為なんてないのかもしれない。行為に完全に混じり気がないのは神様とかイエスさまくらいなのだと思う。人間はどうしてもその行為に不純な動機を含ませてしまう。でも、それは人間であれば何も特別なことではなくて至極当たり前のことなのだ。
ね、だから言ったよね。現実を見て現実的に生きる。それこそ大事なことなの。星さんも分かってきたようじゃないの。
はいはい、ごもっともです。上から目線のご忠告ありがとう。
現実を見て現実的に生きるか。それが今回わたしに欠けていたことだったようだ。世界にわたし一人だけだったら何をやるか、なんて考えても現実的でないのはたしかだ。それよりも、この現実で、一人ではない現実で何をやるのか、やりたいのかということを考えた方がいい。わたしが生きているのは、わたしがいるのはこの世界なのだからありもしない世界について考えるのは意味がない。
崖まで追い詰められたかのように見えたところからまさかの持ち直しに驚いているわたしなのだけれど、持ち直せて本当に良かった。
神様、わたしに理路整然と考える力を与えてくださりありがとうございました。
すべては神様からのギフト。悩みもそれを考えていく気力も体力も力さえも。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。