じんわりじわじわ

いろいろエッセイ
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 新聞には今日も活躍している人々が紹介されていて、それはそれはキラキラしている。トップランナーというものはカッコイイ。その分野のトップ集団に位置して、クリエイティブな活躍をしていて、みんなの憧れの的。
 でも、わたしは、特に最近のわたしは別に成功しなくてもいいかなという気持ちになりつつある。こんなことを言うと、負け犬の遠吠えだと揶揄されるかもしれない。けれど、何だか自分の軸がはっきりとしてきたようで、社会的成功を完全に放棄するまでには至っていないものの、それがわたしの求める生き方とは違うような気がしてきたのだ。
 わたしはまだ社会的に成功していないから、その味を知らない。だから、ただいろいろな情報をもとに想像しているに過ぎない。想像しているだけで、そのものの味が分かるか? やはりリンゴと同じでかじってみなければ、食べてみなければ分からないんじゃないか。でも、かじってみなくても大方予想がつくのだ。その葡萄はすっぱいから要らないと言った狐と同じようにわたしもそれを要らないと言う。
 わたしが求めているもの。それは心の平安だ。何を置いても心が平和で落ち着いて心地よくなければと思う。
 で、それを得るにはどうすればいいのか。豪邸に住めばいいのか。違う。フェラーリに乗ればいいのか。違う。タワーマンションの最上階に住めばいいのか。違う。豪華な食事に舌鼓を毎日打てばいいのか。それも違う。そうではなくて、自分で自分のことを幸せだなぁと思えた時に、心の平安は訪れるのだ。だから、豪華な、豪勢な暮らしや生活をして得られる満足感は必ずしも必要ではない。むしろ、そうした生活は幸せの基準を底上げして、小さな幸せでは幸せを感じ取れないようにしてしまう。並大抵のことでは幸せを感じられなくなってしまうのだ。
 だから、わたしは贅沢な生活をしたくはない。かえってそれらは有害だ。そうではなくて、慎ましい中にも気品があるような、そんな生活ができたらと思っているのだ。
 今のわたしの生活は自分で言うのも何だけど、気品があると思う。豪華ではない。華美でもない。けれど、至るところに品がある。品と言ってもテーブルマナーが超一流だとかそういう話でもなくて、ただ単に品格があると思うのだ。
 スパイスカレーをわたしはよく作る。別にカレーなんてレトルトでいいと言ってしまえば、それで事足りる。でも、そこをあえて自分で作る。料理人とかシェフに作ってもらってそれを食べる方が気品があると言いたい人もいるかもしれないけれど、自分で作るほうが断然品があると思う(この感覚は理解してもらえるかどうか分からない)。自分で調理して自分が食べたいカレーを心を込めて作る。これ、すごく品があると思う。料理させられてるわけだから品も何もないよ、などと言うなかれ。わたしの美的センス、感覚においては自分で料理をすることがジェントルマンの嗜みのようなものであって、とにかく気品に溢れているのだ。
 そして、カレーが出来上がる。母と二人で仲良くおいしく食べる。わたし以外の人が作ったカレーを母に食べてもらうのではなくて、自分が一生懸命作ったカレーを母に振る舞っている。そこにも輝かしいばかりの気品が溢れている。腕を振るって作った絶品カレーを母に食べてもらう。これは自分ができる最高のおもてなしではないだろうか。このおもてなしのあり方にも気品があるのだ。
 さっきから気品とか品格だとか話がオーバーなんだよ、と思われている人がいるかもしれない。でも、わたしはこの営みにものすごく真心がこもっているように思うのだ。それが別の言い方をすると、気品に溢れていて、品格があるということなのだ。
 何もお金をかければ気品が生まれるわけではない。そうではなくて、その営みの中に品格があるかどうか。凛としたたたずまいがあるかどうか。わたしのカレーなんて材料費からしたら、せいぜい2人前で数百円しかかかっていないだろう。でも、金額ではない。自分で実際に手を動かして料理を作る。そして、おいしい料理を作りたいと思いながら、それを行動に移しているということに価値があるのだ。
 また規模を大きくすれば気品が生まれるわけでもない。何百人分ものカレーを作れば気品が生まれるかどうかと言えば、またそれも違うように思うのだ。もちろん、一人や二人分ではなくてそれだけ作るのは大変だから、その労力に対しては労(ねぎら)わなければならない。規模とか影響力とか、そういったことではなくて、そのやろうとすることに心がこもっているか。凛としたたたずまいがあるかどうか。それこそが気品があるということなのだ。
 家族のためにカレー作って食べてるだけで、そんなの全然大したことないし誇ることでもないよ、などと思っているあなた。じゃあ、どうなったら気品があるのですか? どうなれば誇ってもいいのですか? と聞かれようものなら、もっと大変な苦行をあなたは挙げることだろう。フルタイムの仕事をこなし、残業もする。そして、帰宅したら資格試験のために猛勉強をする。さらには小さな子どもの世話、またそれだけではなくて老親や舅、姑の介護。まさにトリプルワーク。そこまでやってから気品だぁ、品格だぁ、誇るだぁ言えよ。と言われようものなら「失礼しました」と頭を下げるしかない。こうした苦行を毎日、連日のようにこなしている人にわたしは頭が上がらないし、大きなことは言えない。
 でも、このわたしのカレー作りはささやかなプライドなのだ。わたしの誇りであり、譲れないところでもあるのだ。世の中には自分よりも苦しい状況や環境で必死に生きている人がいる。だから何も誇ってはいけないんだと言いたい人もいるかもしれない。でもね、ささやかなプライドは生きていく上での必需品だとわたしは思うんだな。わたしは自分のスパイスカレー作りを通して自分自身を肯定しているんだ。こういう肯定が何もないと人は生きていくのが難しい。
 話を冒頭に戻すと、わたしは成功している人がうらやましくなくなってきた。わたしはわたしだし、彼らは彼ら。達者にやっていてくれればそれでいい。別に彼らと張り合って勝とうとかしなくていい。勝ったところで「じゃあ、それが何なんですか?」と詰問されればすぐに行き詰まる。そういう勝ち負けではなくて、自分が自分らしく生きていければそれでいいような、そんな心境になりつつある。わたしがわたしらしく生きるために人に勝つことが必要なのだろうか。中には、人に勝つことが、勝とうとする生き方をすること自体がわたしらしさであって、わたしらしい生き方なんだっていう人もいるかもしれない。そういう人にはそういうその人らしさがあるだろうから、わたしはそのことについてとやかく言うつもりはない。わたしが言いたいのは、わたしの場合(この前置き、重要ね)には人に勝つことがわたしらしく生きる上での必須項目ではないということだ。人に勝つと何だか気持ちが高揚するというのも分からなくはない。けれど、わたしが求めている幸せとか幸福感、つまりは心の平安はそれとは違うんだよなぁ。勝って得られる高揚感は長くは続かないから、わたしが求めているものとは違う。わたしがほしい心の平安は長続きするものなんだ。長くじんわりじわじわ持続していく、そんな幸福感に浸っていたいのだ。
 それはまるでぬるま湯のあったかいお風呂。あるいは気持ちのいい日向ぼっこ。だから、人に勝つとか何だというのは要らないの。それよりも、自分がポカポカしていることを求めていく。お、自分の軸が見えてきたぞ。ポカポカしていきたいわけか。じんわりじわじわ、幸せな時間を過ごしていけたらいいなと思うわたしなのでした。

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